ロシア学事始ロシアの君主リューリク家人名録系図人名一覧

リューリク家人名録

アレクサンドル・ヴァシーリエヴィチ

Александр Васильевич

スーズダリ公 князь Суздальский (1309-31)
ヴラディーミル大公 великий князь Владимирский (1328-31)?

生:?
没:1331/32

父:スーズダリ公ヴァシーリイ・アンドレーエヴィチスーズダリ公アンドレイ・ヤロスラーヴィチ
母:?

結婚:?

子:

生没年
母親不詳
?エヴドキーヤ-1404トヴェーリ公ミハイール

第13世代。モノマーシチ(スーズダリ系)。

 ヴァシーリイ・アンドレーエヴィチの長男。
 生年は不明。父の生年も不明で、結婚年もわからないが、アレクサンドルにせよ弟コンスタンティーンにせよ、子供は1320年代以降に生まれていると考えられるので(アレクサンドルの娘エヴドキーヤはコンスタンティーンの娘だとする説がある)、かれら自身は1300年前後、せいぜい1290年代の生まれと見ることもできるだろう(もちろんもっと早い可能性も否定はできない)。

 当初はトヴェーリ公ミハイール・ヤロスラーヴィチを支持し、モスクワ公ユーリイ・ダニイーロヴィチと敵対していた。しかしその後、立場を変更したようである。

 1327年、トヴェーリで反タタール暴動が勃発し、ウズベク・ハーンの従兄弟でもある使節チョル・ハーンが殺される。モスクワ公イヴァン1世・カリターがウズベク・ハーンの命を受けてタタール軍を率いて懲罰に向かうと、アレクサンドル・ヴァシーリエヴィチもこれに合流。暴動を鎮圧した。ヴラディーミル大公でもあるトヴェーリ公アレクサンドル・ミハイロヴィチはプスコーフに逃亡した。
 1328年、ウズベク・ハーンにより戦後処理がおこなわれた。トヴェーリ公位はアレクサンドル・ミハイロヴィチから取り上げられ、その弟コンスタンティーン・ミハイロヴィチに与えられた。イヴァン1世・カリターはノーヴゴロド支配とコストロマー併合が認められた。アレクサンドル・ヴァシーリエヴィチにはゴロデーツとニージュニイ・ノーヴゴロドの領有が認められた(それまではヴラディーミル大公の直轄領、即ちアレクサンドル・ミハイロヴィチの領土)。
 問題はヴラディーミル大公位で、イヴァン・カリターに与えられたとする説とアレクサンドル・ヴァシーリエヴィチに与えられたとする説とがある(両者に与えられたとする説まである)。大公位はイヴァン・カリターに、都市ヴラディーミルそのものはアレクサンドル・ヴァシーリエヴィチに与えられたとする説もある。この辺り、はっきりしない。

 前トヴェーリ公アレクサンドル・ミハイロヴィチはプスコーフに逃亡していたが、ウズベク・ハーンがその逮捕を執拗にルーシ諸公に迫ったため、1329年、プスコーフに軍が派遣された。これにはアレクサンドル・ヴァシーリエヴィチも従軍していたが、ヴラディーミル大公であればかれがこれを率いたということだろう。もっとも、弱小であってみれば、実際に最高実力者であったイヴァン・カリターが主導したのかもしれない。

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最終更新日 07 03 2013

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