ロシア学事始ロシアの君主リューリク家人名録系図人名一覧

リューリク家人名録

ヤロスラーフ・ヴラディーミロヴィチ

Ярослав Владимирович

トルジョーク公 князь Торжский (1245)

生:?
没:?

父:プスコーフ公ヴラディーミル・ムスティスラーヴィチスモレンスク公ムスティスラーフ勇敢公
母:? (リガ司教アルベルトの姪)

結婚:
  & エヴフロシーニヤ公女 -1243 (ポーロツク公ローグヴォロド・ボリーソヴィチ

子:

生没年
エヴフロシーニヤ・ローグヴォロドヴナと
?イーゴリ

第12世代。モノマーシチ(スモレンスク系)。

 厳密には母親は不明。
 父はリガ司教アルプレヒトの姪と結婚したとされており、つまりはこれがヤロスラーフ・ヴラディーミロヴィチの母親だったのだろうと考えられる。
 相手の父親について、具体的に、アルプレヒトの弟テオドリクス(テオドリヒ、ディートリヒ)との名を挙げている文献もあるが、ドイツ側の文献によれば、このテオドリクスは父の娘(つまりヤロスラーフ・ヴラディーミロヴィチの姉か妹)と結婚している。つまり父は、テオドリクスの義理の父であると同時に義理の息子ということになる。
 父とアルプレヒトとの間に姻戚関係が結ばれたのは確かだろうが、具体的にどのような関係だったかについてはこのように混乱が見られる。

 アルブレヒト・フォン・ブクスヘヴデン(ブクスヘヴェン、ブクストヘヴェデン、ブクストヘヴェン等)は、1199年にリヴォニア司教に叙任され、1200年にリヴォニアに赴任。1201年にリガを建設した。父がその姪と結婚したとすればこれ以降ということになる。
 しかし父は1208年(あるいは1211年)にプスコーフ公となるまでは南ルーシの伯父のもとで暮らしていたようだ。アルプレヒトとすればプスコーフ公とは姻戚関係を結ぶ価値はあっても、南ルーシの諸公とではあまり意味のあることではない。
 このように考えてくると、ヤロスラーフ・ヴラディーミロヴィチの母親がアルプレヒトの姪であったとすると、ヤロスラーフ・ヴラディーミロヴィチの生年は1210年代と考えるのが妥当だろう。
 しかし他方で、ヤロスラーフ・ヴラディーミロヴィチはすでに1222年から軍事活動に従事していたとする文献もある。特に重要なのが、妻エヴフロシーニヤ・ローグヴォロドヴナである。彼女の父ローグヴォロト・ボリーソヴィチは1180年頃までには死んでいる。もしヤロスラーフ・ヴラディーミロヴィチがアルプレヒトの姪の子であるとすると、およそ30歳以上も年上の女性と結婚したということになる。政略結婚が当たり前だったとはいえ、さすがにこれはないだろう。
 父は1180年代には軍事活動に従事しており、もしこの頃ヤロスラーフ・ヴラディーミロヴィチが生まれたとすれば、エヴフロシーニヤ・ローグヴォロドヴナとの年齢差も問題とならない。その場合、母親は当然ながらアルプレヒトの姪ではない、ということになる。父がアルプレヒトの姪と結婚したのが確かだとしても、それは後妻であり、ヤロスラーフ・ヴラディーミロヴィチの母親は別人だったのではないだろうか。

 父の没年は不明だが、少なくとも1226年までは生きていた。ところがヤロスラーフ・ヴラディーミロヴィチは1222年、ヴェンデンを攻略したリヴォニア騎士団に従軍している。ヤロスラーフ・ヴラディーミロヴィチは後年ドイツ人側に立って活動しているが、すでに父の存命中にリヴォニア側についていたということになる。
 言うまでもなく、リガ司教との縁を頼ってリガで暮らしていたということだろう(母がリガ司教の姪でなかったとしても、継母がそうだったかもしれないし、あるいは姉か妹がリガ司教の弟の妻だった)。
 問題は、なぜヤロスラーフ・ヴラディーミロヴィチが父のもとではなくリガで暮らしていたか、であるが、これに答えることはおそらく不可能。
 もしヤロスラーフ・ヴラディーミロヴィチがアルプレヒトの姪の子であるとすれば、ひょっとしたら1214年に父がプスコーフを追われてリガに滞在していたことがあるが、父が帰国した後も母とともにリガにとどまったのかもしれない。
 しかし母親がアルプレヒトの姪ではないとしたら、ヤロスラーフ・ヴラディーミロヴィチは当然ルーシで正教徒のルーシ人として育てられただろうし、祖国どころか父にも叛旗を翻してドイツ人のもとで暮らす理由がなさそうに思える。
 いずれにせよ、リガ司教の血縁者としてリヴォニアの居心地は良かっただろう。アルプレヒトは1229年に死んだが、すでに当地のドイツ人たちと密接な関係を築いていたのか、その後もプスコーフ(あるいはスモレンスク)に帰国することはなかった。エヴフロシーニヤ・ローグヴォロドヴナという妻がいたにもかかわらず、ドイツ人と重婚したらしい。

 1233年、リヴォニア騎士団の支援を得てプスコーフからイズボルスクを奪うが、すぐに奪い返される。この時ノーヴゴロド軍を率いていたペレヤスラーヴリ公ヤロスラーフ・フセヴォローディチに捕らえられ、ペレヤスラーヴリ=ザレスキイに監禁されたらしい(その後釈放されたようだ)。

 1241年、再びリヴォニア騎士団の支援を得てイズボルスクを占領。プスコーフ軍を撃退する。リヴォニア騎士団はさらに敗走するプスコーフ軍を追い、プスコーフを占領する。これに危機感を覚えたノーヴゴロドが公に招いたのがヤロスラーフ・フセヴォローディチの息子のアレクサンドル・ネフスキイで、かれがプスコーフを解放し、氷上の戦いでリヴォニア騎士団を破るが、これにはヤロスラーフ・ヴラディーミロヴィチはかかわっていない。
 1242年、アレクサンドル・ネフスキイと講和し、トルジョーク(ノーヴゴロド領)をもらう。

 聖エヴプラクシーヤ・プスコーフスカヤ(エヴフロシーニヤ・ローグヴォロドヴナのこと)の聖者伝によると、エヴフロシーニヤ・ローグヴォロドヴナは1243年、夫に呼ばれてリヴォニアへ。夫とドイツ人女性との間に生まれた子に殺されたという。
 ヴラディーミル・ムスティスラーヴィチはトルジョークにいたのではないのか。

 1245年、リトアニア人がトルジョークに侵攻。ヤロスラーフ・ヴラディーミロヴィチは大敗を喫する。しかしトヴェーリやドミートロフ(いずれもヤロスラーフ・フセヴォローディチの支配するヴラディーミル=スーズダリ領)の援軍を得て、トローペツ近郊でリトアニア人を撃破する。

 ローマ教皇グレゴリウス9世がかれに、カトリックに改宗するよう説得する書簡を送っている。

▲ページのトップにもどる▲

最終更新日 07 03 2013

Copyright © Подгорный (Podgornyy). Все права защищены с 7 11 2008 г.

inserted by FC2 system