フセーヴォロド・ムスティスラーヴィチ
Всеволод Мстиславич
プスコーフ公 князь Псковский (1214)
ノーヴゴロド公 князь Новгородский (1219-21)
スモレンスク公 князь Смоленский (1239-49)
生:?
没:1249
父:スモレンスク公ムスティスラーフ老公 (スモレンスク公ロマーン・ロスティスラーヴィチ)
母:?
結婚:?
子:?
第12世代。モノマーシチ(スモレンスク系)。
両親の生年も、そもそも母親が誰かも、当然両親の結婚した年も不明。ということで、フセーヴォロド・ムスティスラーヴィチの生年を推測すべき手掛かりは皆無だが、想像で言えば1180年代ということろか。父の生年が1150年代と想像(これまた想像だ)されるし、フセーヴォロド・ムスティスラーヴィチが年代記に登場する時期、没年などを勘案してみても、妥当なところではないだろうか。
1214年、父がキエフ大公となる。
この頃ノーヴゴロド公だったのは一族のムスティスラーフ幸運公。その兄(?)ヴラディーミル・ムスティスラーヴィチは前年(?)にプスコーフ公位を追われていた。フセーヴォロド・ムスティスラーヴィチはその後任としてムスティスラーフ幸運公によりプスコーフ公に送り込まれた。
ただしヴラディーミル・ムスティスラーヴィチは1214年にはプスコーフに帰還。プスコーフ市民はこれを迎え入れ、フセーヴォロド・ムスティスラーヴィチのプスコーフ公在任はわずかの期間で終わった。
以後、基本的にはキエフ公領の父のもとにいたものと考えられる。
1218年、ガーリチに去ったムスティスラーフ幸運公の後任として、兄のスヴャトスラーフ・ムスティスラーヴィチがノーヴゴロド公となる。しかし市長トヴェルディスラーフと対立し、1219年にはフセーヴォロド・ムスティスラーヴィチが兄に代わってノーヴゴロドに派遣された。同年、ノーヴゴロド軍を率いてリヴォニア騎士団と戦い、勝利。
しかしフセーヴォロド・ムスティスラーヴィチも兄同様にトヴェルディスラーフと対立。
1220年、所用でスモレンスクへ、さらにトルジョークへ。ノーヴゴロドに帰還すると、トヴェルディスラーフは病で臥せっていた。フセーヴォロド・ムスティスラーヴィチは軍を催してトヴェルディスラーフを討とうとするが、かれを支持するノーヴゴロド市民も武装してこれに対抗。フセーヴォロド・ムスティスラーヴィチは主教ミトロファーンを派遣し、和解した。ただしトヴェルディスラーフは病気を理由に市長職からの引退を余儀なくされた。その限りで、この対立はフセーヴォロド・ムスティスラーヴィチの勝利に終わったと言えよう。
1221年、ノーヴゴロド市民によりフセーヴォロド・ムスティスラーヴィチは追い出される。
1223年、父に従いカルカ河畔の戦いに従軍。この戦いで父はモンゴル軍の捕虜となり、殺された。後任のキエフ大公にはヴラディーミル・リューリコヴィチ(スモレンスク系で、父の従兄弟)が就任した。
戦後フセーヴォロド・ムスティスラーヴィチがそのままキエフ公領にとどまったのか、それともスモレンスクに赴いたのかは不明。あるいは兄スヴャトスラーフ・ムスティスラーヴィチが公となっていたポーロツクに行ったのか。
1230年、スモレンスク公ムスティスラーフ・ダヴィドヴィチが死去。いささかごたごたがあったようだが、1232年には兄スヴャトスラーフ・ムスティスラーヴィチがスモレンスク公となっている。
この頃ヴラディーミル・リューリコヴィチはガーリチ公ダニイール・ロマーノヴィチやチェルニーゴフ公ミハイール・フセヴォローディチと争っており、1233年(35年?)にはイジャスラーフ・ムスティスラーヴィチの捕虜となってキエフ大公位を失っている。
このいずれにおいても、フセーヴォロド・ムスティスラーヴィチのかかわりは不明。スモレンスクかキエフか、どちらかにはいたのだろうと思うのだが。
兄の死後スモレンスク公位を継いだ。ただし肝心の兄の没年がよくわからない。1238年か39年だろうと推測されるが、1238年には北東ルーシを蹂躙したモンゴル軍がスモレンスク近郊を通過している(スモレンスクそのものは攻撃を受けなかった)。この時の兄、あるいはフセーヴォロド・ムスティスラーヴィチの対応については不明。
1239年、モンゴル軍によって破壊された北ルーシに、リトアニアが侵攻。スモレンスクも攻略されたらしい。リトアニアと戦うヴラディーミル大公ヤロスラーフ・フセヴォローディチによって、フセーヴォロド・ムスティスラーヴィチがスモレンスク公とされたという文献がある。あるいはリトアニアの攻撃で兄も没したのかもしれない。
しかしスモレンスク公となったフセーヴォロド・ムスティスラーヴィチだが、1239年以降の動向については年代記は沈黙している。