ロスティスラーフ・ムスティスラーヴィチ
Ростислав Мстиславич
スモレンスク公 князь Смоленский (1125-60)
ノーヴゴロド公 князь Новгородский (1153)
キエフ大公 великий князь Киевский (1154、59-62、62-67)
生:1110頃
没:1167.03.17−ザルブ
父:キエフ大公ムスティスラーフ偉大公 (キエフ大公ヴラディーミル・モノマーフ)
母:クリスティーナ (スウェーデン王インゲ1世年長王)
結婚:?
子:
名 | 生没年 | ||
---|---|---|---|
母親不詳 | |||
1 | ロマーン | -1180 | スモレンスク |
2 | リューリク | -1214 | オーヴルチ |
3 | ダヴィド | 1140-97 | ヴィーシュゴロド |
4 | スヴャトスラーフ | -1170 | ノーヴゴロド |
5 | ムスティスラーフ | -1180 | スモレンスク |
6 | アガーフィヤ | セーヴェルスキイ公オレーグ | |
? | マリーヤ | ポーランド王ボレスワフ4世巻毛王 | |
エレーナ | -1202 | ポーランド王カジミェシュ2世正義王 | |
7 | アグラフェーナ | -1237 | リャザニ公イーゴリ |
? | ? | トゥーロフ公グレーブ |
第9世代。モノマーシチ。洗礼名ミハイール。ムスティスラーフ偉大公の三男。
もっとも、1130年代の行動を比較してみると、四男とされるスヴャトポルクの方がよほど活躍している。こちらを三男とする説があるのも肯ける。
スモレンスク系モノマーシチの始祖。
1125年、祖父が死に、父がキエフ大公となる。これに伴い、ロスティスラーフ・ムスティスラーヴィチはスモレンスク公とされた。
なお、それ以前のスモレンスク公は叔父のヴャチェスラーフ・ヴラディーミロヴィチ。ヴャチェスラーフ・ヴラディーミロヴィチはスモレンスクの代わりにトゥーロフを受け取ったが、トゥーロフを受け取ったのは1127年だとする説がある。その場合、1125年にロスティスラーフ・ムスティスラーヴィチにスモレンスクを譲り渡したとすると、ヴャチェスラーフ・ヴラディーミロヴィチは2年間無職だったことになってしまう。
ロスティスラーフをスモレンスク公にするためにヴャチェスラーフにトゥーロフを与えたのか(とすれば一時期ヴャチェスラーフが無職になっても不思議はない)、ヴャチェスラーフにトゥーロフを与えたために空いたスモレンスクをロスティスラーフに与えたのか。
まだ幼少だった、というのもあるが、ロスティスラーフ・ムスティスラーヴィチはスモレンスク公として独自の動きをすることはなく、基本的に父に忠実に従った。
これは1132年に父が死んだ後も同様で、父の死後は兄たち(特にイジャスラーフ・ムスティスラーヴィチ)に従っている。
スモレンスクの内政においてもロスティスラーフ・ムスティスラーヴィチの基本姿勢は変わらず、ここでは従士団やボヤーリンとの協調に努めたらしい。ノーヴゴロドやプスコーフといった «共和国» 以外では例外的にヴェーチェ(民会)が機能した。
もともとスモレンスクは、まともに単一の公国となったことがこれまでなかった。ロスティスラーフ・ムスティスラーヴィチの下で初めてスモレンスク公国という政治的存在が実質を備えたと言える。クリヴィチー族をはじめとする諸部族の融合が進み、ロスティスラーフ・ムスティスラーヴィチの連れてきた従士団と在地貴族との融合が進み、周辺諸公国との国境が確定され、さらには独自の主教座も置かれた。
1140年、キエフ大公フセーヴォロド・オーリゴヴィチがスモレンスクを取り上げようとする。
1144年から、フセーヴォロド・オーリゴヴィチを支援してガーリチ公ヴラディミルコ・ヴォロダーレヴィチと戦う。
1146年、兄イジャスラーフ・ムスティスラーヴィチがキエフ大公となる。以後、ロスティスラーフ・ムスティスラーヴィチは忠実に兄に従い、叔父のロストーフ=スーズダリ公ユーリイ・ドルゴルーキイを筆頭とする敵対諸公との戦いに従事した。
1148年には、兄とともにロストーフ=スーズダリに侵攻している。
1149年、兄とともにペレヤスラーヴリでユーリイ・ドルゴルーキイとその同盟者ノーヴゴロド=セーヴェルスキイ公スヴャトスラーフ・オーリゴヴィチの軍を迎え撃つが、大敗を喫する。ロスティスラーフ・ムスティスラーヴィチはスモレンスクに逃げ帰った。
1151年、兄を支援してユーリイ・ドルゴルーキイ & スヴャトスラーフ・オーリゴヴィチの連合軍を破る。
1153年、甥のヤロスラーフ・イジャスラーヴィチ(兄イジャスラーフ・ムスティスラーヴィチの子)がノーヴゴロドを追われる。当時はノーヴゴロド公位を巡っても、ロスティスラーフ等ムスティスラーヴィチ兄弟とユーリイ・ドルゴルーキイとの対立が繰り広げられていた。そのため反ユーリイ派に担がれて、ロスティスラーフ・ムスティスラーヴィチがノーヴゴロド公になった。おそらく兄の代理といった意味合いだったろう。
1154年、イジャスラーフ・ムスティスラーヴィチが死去。
兄は晩年、叔父の中でもヴャチェスラーフ・ヴラディーミロヴィチは別扱いし、共同でキエフ・ルーシには稀な二頭体制を敷いていた。イジャスラーフ・ムスティスラーヴィチの死後、キエフにはヴャチェスラーフ・ヴラディーミロヴィチと遺児ムスティスラーフ・イジャスラーヴィチが残されたが、ふたりは、イジャスラーフ・ムスティスラーヴィチのすぐ次の弟として、また長年の同盟者として、ロスティスラーフ・ムスティスラーヴィチを呼び寄せた。
ロスティスラーフ・ムスティスラーヴィチはすぐさまノーヴゴロドを発ち、キエフに入った(ノーヴゴロドには息子ダヴィドを残した)。
ヴャチェスラーフ・ヴラディーミロヴィチは、イジャスラーフ・ムスティスラーヴィチに対して、父として敬うことを要求しただけで、実権はすべてイジャスラーフ・ムスティスラーヴィチに与えていた。ロスティスラーフ・ムスティスラーヴィチにも同様の扱いを要求するが、ロスティスラーフ・ムスティスラーヴィチはこれを呑んで、こうして改めて二頭体制が成立した。
兄の晩年、ロストーフ=スーズダリ公ユーリイ・ドルゴルーキイ、チェルニーゴフ公イジャスラーフ・ダヴィドヴィチ、ノーヴゴロド=セーヴェルスキイ公スヴャトスラーフ・オーリゴヴィチ、ガーリチ公ヴラディミルコ・ヴォロダーレヴィチが結んで兄に対抗していた。ロスティスラーフ・ムスティスラーヴィチは甥のペレヤスラーヴリ公ムスティスラーフ・イジャスラーヴィチのみならず、チェルニーゴフ系のスヴャトスラーフ・フセヴォローディチとも結ぶ(トゥーロフを与えた)。しかし異母弟のヴラディーミル=ヴォルィンスキイ公ヴラディーミル・マーチェシチは反対派にまわった。
公領 | 公 | |
---|---|---|
キエフ | ロスティスラーフ・ムスティスラーヴィチ | 本人 |
スモレンスク | ||
ノーヴゴロド | ダヴィド・ロスティスラーヴィチ | 子 |
ペレヤスラーヴリ | ムスティスラーフ・イジャスラーヴィチ | 甥 |
トゥーロフ | スヴャトスラーフ・フセヴォローディチ | 甥 |
ロストーフ | ユーリイ・ドルゴルーキイ | 叔父 |
チェルニーゴフ | イジャスラーフ・ダヴィドヴィチ | |
セーヴェルスキイ | スヴャトスラーフ・オーリゴヴィチ | |
ガーリチ | ヤロスラーフ・オスモムィスル | |
ヴォルィニ | ヴラディーミル・マーチェシチ | 弟 |
ポーロツク | ロスティスラーフ・グレーボヴィチ | |
ムーロム | ロスティスラーフ・ヤロスラーヴィチ? |
反対派は、(あるいはヤロスラーフ・オスモムィスルを除いて)いずれもが自らキエフ大公にならんと野心を燃やしていて、連携が取れておらず、先走ったイジャスラーフ・ダヴィドヴィチが単独でキエフに侵攻。ロスティスラーフ・ムスティスラーヴィチはこれを迎え撃つが、ポーロヴェツ人を含む大軍を目の前にして講和を要請。これに反発したムスティスラーフ・イジャスラーヴィチはペレヤスラーヴリに引き上げて、ロスティスラーフ・ムスティスラーヴィチはイジャスラーフ・ダヴィドヴィチに敗北を喫する。
ロスティスラーフ・ムスティスラーヴィチはスモレンスクに逃げ帰り、ムスティスラーフ・イジャスラーヴィチもやがてペレヤスラーヴリを棄ててルーツクに逃亡して、イジャスラーフ・ダヴィドヴィチがキエフ大公となった(ヴャチェスラーフ・ヴラディーミロヴィチは戦闘の前に死んでいた)。
ノーヴゴロドでもダヴィド・ロスティスラーヴィチが追われ、ムスティスラーフ・ユーリエヴィチ(ユーリイ・ドルゴルーキイの子)がノーヴゴロド公となった。
スモレンスクに逃げ戻ったロスティスラーフ・ムスティスラーヴィチは、一旦はキエフ奪還の軍を興すが、同じくキエフを目指すユーリイ・ドルゴルーキイと講和。スモレンスクに戻った(この後ユーリイ・ドルゴルーキイがキエフを奪う)。
1157年、ユーリイ・ドルゴルーキイが死去。イジャスラーフ・ダヴィドヴィチがキエフ大公位を奪還した。
これに対して、ムスティスラーフ・イジャスラーヴィチが、ガーリチ公ヤロスラーフ・オスモムィスル、ドロゴブージュ公ヴラディーミル・アンドレーエヴィチと同盟し、1158年、キエフに侵攻。イジャスラーフ・ダヴィドヴィチを追って、再びロスティスラーフ・ムスティスラーヴィチをキエフ大公として招いた。
ロスティスラーフ・ムスティスラーヴィチがキエフに赴いたのは翌1159年。時間をかけたのはほかでもない。かつて兄イジャスラーフ・ムスティスラーヴィチが叔父ヴャチェスラーフ・ヴラディーミロヴィチを祀り上げて実権を握ったように、甥ムスティスラーフ・イジャスラーヴィチに祀り上げられて実権を奪われてはたまらないと考えたからであり、その交渉に時間がかかったためである。
ロスティスラーフ・ムスティスラーヴィチは甥にキエフ公領からベールゴロド、トルチェスク、トリポーリを与えたが、ムスティスラーフ・イジャスラーヴィチはそこに代官を残してヴラディーミル=ヴォルィンスキイに引き上げた。
ノーヴゴロドでも、ユーリイ・ドルゴルーキイの死で反ユーリイ派の活動が活発化する。これに乗じたロスティスラーフ・ムスティスラーヴィチはノーヴゴロドに軍を派遣。ムスティスラーフ・ユーリエヴィチは逃亡し、ロスティスラーフ・ムスティスラーヴィチは息子スヴャトスラーフをノーヴゴロド公とした。
当時ポーロツクでは公家がドルツク系、ミンスク系、ヴィテブスク系に分裂し、ポーロツク公位を巡って激しく争っていた。
1158年、ロスティスラーフ・ムスティスラーヴィチは息子たちを派遣し、ローグヴォロド・ボリーソヴィチ(兄イジャスラーフ・ムスティスラーヴィチの娘婿)のドルツク公位奪回を支援させる。ローグヴォロド・ボリーソヴィチは翌1159年にはロスティスラーフ・グレーボヴィチを追ってポーロツク公に返り咲いている。
これ以降、スモレンスク系一族はポーロツクに大きな影響力を振るうようになる。
ステップに逃れたイジャスラーフ・ダヴィドヴィチは、ポーロヴェツ人を引き連れてチェルニーゴフを中心にルーシを荒らしまわった。これに対してロスティスラーフ・ムスティスラーヴィチはスヴャトスラーフ・オーリゴヴィチと同盟。
キエフとチェルニーゴフのボヤーリンたちを買収し、さらにチェルニーゴフ系諸公を味方に引き込んだイジャスラーフ・ダヴィドヴィチは、1162年、ポーロヴェツ人を引き連れてキエフに侵攻。ロスティスラーフ・ムスティスラーヴィチは、手元にいたのがヴラディーミル・アンドレーエヴィチだけだったため、キエフを棄ててベールゴロドに立てこもる。攻囲戦の続く中、ガーリチ軍も引き連れたムスティスラーフ・イジャスラーヴィチがヴォルィニから、さらにテュルク系遊牧民を引き連れて息子リューリクが救援に駆け付けた。イジャスラーフ・ダヴィドヴィチは逃亡。しかしステップに辿りつく前に、追撃軍により殺された。
3度にわたって叔父のためにキエフを奪回してやったムスティスラーフ・イジャスラーヴィチとの関係は、おそらく叔父・甥自身がどう考え感じていようと、悪化せざるを得なかっただろう。おそらくは性格的にも両者はかなり異なっていたものと思われるだけになおさらである。
ムスティスラーフ・イジャスラーヴィチはヴラディーミル=ヴォルィンスキイに戻り、ロスティスラーフ・ムスティスラーヴィチは3年前に自らくれてやったキエフ公領内の諸都市を取り上げた。
対立は激化。ロスティスラーフ・ムスティスラーヴィチはチェルニーゴフ系諸公と和解し、トゥーロフ公ユーリイ・ヤロスラーヴィチ(5年前に自らトゥーロフを与えた)とも同盟し、戦わずしてムスティスラーフ・イジャスラーヴィチを屈服させた。
1163年、ロスティスラーフ・ムスティスラーヴィチはムスティスラーフ・イジャスラーヴィチと講和し、トルチェスクとベールゴロドを返還してやった。
以後、5年後に死ぬまで、ロスティスラーフ・ムスティスラーヴィチのキエフ大公位は安定したものであった。
1165年、ロスティスラーフ・ムスティスラーヴィチは息子ダヴィド・ロスティスラーヴィチをポーロツクに派遣。ロマーン・ヴャチェスラーヴィチを追ったダヴィド・ロスティスラーヴィチがヴィテプスク公となった。ダヴィド・ロスティスラーヴィチは1167年にはミンスク公ヴォロダーリ・グレーボヴィチを追い、フセスラーフ・ヴァシリコヴィチをポーロツク公としている。
息子スヴャトスラーフ・ロスティスラーヴィチのノーヴゴロド公位は安定しなかった。すでにノーヴゴロドは30年前から公の権力によらず地主貴族や商人たちが自立的に支配する «共和政» を打ち立てていた。
1167年、スヴャトスラーフ・ロスティスラーヴィチはノーヴゴロド市民に公位を追われる。ロスティスラーフ・ムスティスラーヴィチは息子とノーヴゴロド市民との関係を仲裁するため、自らノーヴゴロドに向かう。しかしその途上で発病し、ヴェリーキエ・ルーキに。ここに息子とノーヴゴロド市民の代表を招き、両者を仲裁した。
スモレンスクを経由してキエフに戻ろうとするが、その途上の村落ザルブで死んだ。遺骸はキエフに埋葬された。
ポーランド王のボレスワフ4世巻毛王のふたり目の妃マリアと、カジミェシュ2世正義王の妃ヘレナについては、その素性がはっきりしない。研究者の中には、どちらもロスティスラーフ・ムスティスラーヴィチの娘とする者もいるようだが、特段の根拠があるわけでもないようだ。特に後者のヘレナについては、チェコの王族であったとする説が近年有力になっているらしい。