ロマーン・ロスティスラーヴィチ
Роман Ростиславич
ノーヴゴロド公 князь Новгородский (1154、78-79)
スモレンスク公 князь Смоленский (1160-72、77-80)
キエフ大公 великий князь Киевский (1171-73、75-77)
生:?
没:1180.06.14−スモレンスク
父:スモレンスク公ロスティスラーフ・ムスティスラーヴィチ (キエフ大公ムスティスラーフ偉大公)
母:?
結婚:1148
& マリーヤ公女 (チェルニーゴフ公スヴャトスラーフ・オーリゴヴィチ)
子:
名 | 生没年 | ||
---|---|---|---|
マリーヤ・スヴャトスラーヴナと | |||
1 | ヤロポルク | スモレンスク | |
2 | ムスティスラーフ | -1223 | スモレンスク |
3 | ? | ポーロツク公フセスラーフ・ヴァシリコヴィチ | |
? | ボリース | プスコーフ |
第10世代。モノマーシチ(スモレンスク系)。洗礼名ボリース?
ロスティスラーヴィチ兄弟の生年、長幼の順についてはまったくはっきりしない。
おそらく、一般的にはロマーンが長男とされているようだ。年代記に登場するのも最も早いし(1148年)、それも結婚についての記事だから、この時点で結婚年齢(必ずしも成年とは限らない)であったロマーンが長男とされるのも不思議はない。1154年に父からノーヴゴロド公位を譲られたダヴィドが1140年の生まれとされているのだから、ロマーンはあるいはよほどの年長であったのかもしれない。遅くとも、その結婚の年からすると、1130年代後半には生まれていたと見ていいだろう。
1151年、伯父のキエフ大公イジャスラーフ・ムスティスラーヴィチを支援して、ロストーフ=スーズダリ公ユーリイ・ドルゴルーキイと戦う。しかし当時キエフを争っていたのはこの両者だけではなく、義父スヴャトスラーフ・オーリゴヴィチも同様で、ロマーン・ロスティスラーヴィチは1152年には義父とも戦っている。
1154年、イジャスラーフ・ムスティスラーヴィチが死去。キエフ大公位を継いだ父により、ロマーン・ロスティスラーヴィチはノーヴゴロド公とされる。しかしすぐにユーリイ・ドルゴルーキイに追い出された。後任となった(?)弟ダヴィド・ロスティスラーヴィチもやがてノーヴゴロド市民に追われ、父のキエフ大公位も長続きしなかった。
1158年、ロマーン、ダヴィド、リューリクのロスティスラーヴィチ兄弟は父の命により、ローグヴォロド・ボリーソヴィチのドルツク公位奪回を支援。その後もロスティスラーフ・グレーボヴィチとのポーロツク公位を巡る争いを支援する。
1159年にもロマーン・ロスティスラーヴィチは、スヴャトスラーフ・オーリゴヴィチを支援してスヴャトスラーフ・ヴラディーミロヴィチと戦っている。
1159年(60年?)、父が再びキエフ大公位を獲得。ロマーン・ロスティスラーヴィチは本領スモレンスクを任された。今回は父のキエフ大公位も安定し、ロマーン・ロスティスラーヴィチのスモレンスク公位も波乱のないものだったようだ。
1167年、父が死去。キエフ大公位は従兄弟のムスティスラーフ・イジャスラーヴィチが継いだ。
父はその兄(ロマーンにとっては伯父)イジャスラーフ・ムスティスラーヴィチを終生にわたって支持したが、その子ムスティスラーフ・イジャスラーヴィチとの関係は晩年に至ってぎくしゃくしたものとなっていた。代わって父の盟友となったのが、かつての仇敵ユーリー・ドルゴルーキーの子アンドレイ・ボゴリューブスキイであった。このためムスティスラーフ・イジャスラーヴィチとアンドレイ・ボゴリューブスキイとの対立においては、ロスティスラーヴィチ兄弟は挙ってアンドレイ・ボゴリューブスキイを支持した。
1169年、アンドレイ・ボゴリューブスキイがムスティスラーフ・イジャスラーヴィチを追ってキエフを占領。弟グレーブ・ユーリエヴィチをキエフ公とする。これにはロマーン・ロスティスラーヴィチも従軍していた。
アンドレイ・ボゴリューブスキイはさらにノーヴゴロドからムスティスラーフ・イジャスラーヴィチの子ロマーン偉大公を追い、ロマーン・ロスティスラーヴィチの弟リューリクをノーヴゴロド公とした。このノーヴゴロド遠征にもロマーン・ロスティスラーヴィチは従軍している。
こうしてアンドレイ・ボゴリューブスキイとロスティスラーヴィチ兄弟の覇権がルーシに確立した。
1171年(?)、グレーブ・ユーリエヴィチが死去。ロスティスラーヴィチ兄弟は一族内の年長権に従い叔父のヴラディーミル・マーチェシチをキエフ大公にしようとするが(ただしモノマーシチ一族では最年長者はアンドレイ・ボゴリューブスキイ)、これを嫌ったアンドレイ・ボゴリューブスキイが、代わりにロマーン・ロスティスラーヴィチに大公位を提供。こうしてロマーン・ロスティスラーヴィチがキエフ大公となった。
当時、弟たちはみなそろって南ルーシにいた。このためロマーン・ロスティスラーヴィチは、後任のスモレンスク公に長男のヤロポルクを据えた。
スモレンスク系一族は非常に特異な一族で、ロスティスラーヴィチ兄弟は挙ってキエフ公領に分領を得ている。
もちろんキエフ大公の弟や子がキエフ近郊に分領を得るのはいまに始まったことではないが(チェルニーゴフもペレヤスラーヴリもキエフ近郊である)、キエフ公領そのものを分割するというのは、20年ほど前に始まったばかりである。ちょうどこの頃は、スモレンスク系一族(ロマーン・ロスティスラーヴィチの弟たち)とヴラディーミル系一族(アンドレイ・ボゴリューブスキイの弟たち)がキエフ公領を分け合っていた。
この辺りの事情をはっきりさせるため、以下のような表をつくってみた。「分領1」というのは兄・父がキエフ大公だった時期の分領。「分領2」というのはそれ以後の分領である。文字を強調している地名が、キエフ公領内の分領である。
キエフ大公 | 弟・子 | 血縁 | 分領1 | 分領2 |
---|---|---|---|---|
ムスティスラーフ偉大公 1125-32 | ヤロポルク | 弟 | ペレヤスラーヴリ | キエフ |
ヴャチェスラーフ | 弟 | トゥーロフ | ペレヤスラーヴリ、トゥーロフ | |
ユーリー | 弟 | ロストーフ | ||
アンドレイ善良公 | 弟 | ヴォルィニ | ヴォルィニ、ペレヤスラーヴリ | |
フセーヴォロド | 子 | ノーヴゴロド | ||
イジャスラーフ | 子 | クールスク、ポーロツク | トゥーロフ、ヴォルィニ | |
ロスティスラーフ | 子 | スモレンスク | ||
ヤロポルク・ヴラディーミロヴィチ 1132-39 | ヴャチェスラーフ | 弟 | ペレヤスラーヴリ、トゥーロフ | |
ユーリイ | 弟 | ロストーフ | ||
アンドレイ善良公 | 弟 | ペレヤスラーヴリ | ||
フセーヴォロド・オーリゴヴィチ 1139-46 | スヴャトスラーフ | 弟 | ノーヴゴロド、セーヴェルスキイ | |
スヴャトスラーフ | 子 | ヴォルィニ | トゥーロフ、セーヴェルスキイ | |
イジャスラーフ・ムスティスラーヴィチ 1146-49/51-54 | ロスティスラーフ | 弟 | スモレンスク | |
スヴャトポルク | 弟 | ヴォルィニ | ― | |
ヴラディーミル | 弟 | ドロゴブージュ | ヴォルィニ | |
ムスティスラーフ | 子 | ペレヤスラーヴリ | ルーツク、ヴォルィニ | |
ヤロスラーフ | 子 | トゥーロフ、ノーヴゴロド | ルーツク | |
ユーリイ・ドルゴルーキイ 1149-51/54-57 | ヴャチェスラーフ | 兄 | ヴィーシュゴロド | キエフ |
ロスティスラーフ | 子 | ペレヤスラーヴリ | ― | |
アンドレイ | 子 | ヴィーシュゴロド、トゥーロフ | ヴラディーミル | |
グレーブ | 子 | カーネフ、ペレヤスラーヴリ | ||
ボリース | 子 | ベールゴロド、トゥーロフ | ― | |
ヴァシリコ | 子 | スーズダリ、ポローシエ | ||
ムスティスラーフ | 子 | ノーヴゴロド | ― | |
ミハイール | 子 | スーズダリ | トルチェスク | |
ロスティスラーフ・ムスティスラーヴィチ 1154/59-67 | ロマーン | 子 | スモレンスク | |
ダヴィド | 子 | トルジョーク | ヴィーシュゴロド | |
リューリク | 子 | オーヴルチ | ベールゴロド | |
スヴャトスラーフ | 子 | ノーヴゴロド | ― | |
ムスティスラーフ | 子 | ベールゴロド | スモレンスク、ノーヴゴロド |
ヴラディーミル公領ではアンドレイ・ボゴリューブスキイが独裁を樹立し、弟たちを言わば厄介払いを兼ねて南ルーシに派遣していたという事情がある。そのためもあって、アンドレイ・ボゴリューブスキイの死後は南ルーシにとどまる者はなかった。
これに対してスモレンスク公領ではロマーン・ロスティスラーヴィチは独裁者ではなく、弟たちは自ら望んで南ルーシにとどまっていた。特にダヴィドとリューリクのふたりは南ルーシに固執し、リューリクなどはスモレンスク公位の継承を甥に譲ってまでも南ルーシに居残り続けた。
キエフ公領のヴィーシュゴロド、ベールゴロド、オーヴルチ、トルチェスク、トリポーリなどの公は、これ以降ほぼスモレンスク系に独占されることになる。それはつまりキエフ大公が誰になろうとスモレンスク系一族が南ルーシに大きな影響力を維持したということであり、さらにそれに加えてキエフ大公の直轄領たるキエフ公領が細分化されたことで、キエフ大公の権力そのもののさらなる低下を招くこととなった。
ロスティスラーヴィチ兄弟とアンドレイ・ボゴリューブスキイとの蜜月は長続きしなかった。いつ頃かは不明だが、グレーブ・ユーリエヴィチの死因について、ロスティスラーヴィチ兄弟の部下に殺された、とする噂がアンドレイ・ボゴリューブスキイの耳に届いたためである。アンドレイ・ボゴリューブスキイが下手人とされる男の引き渡しを求めてくるが、ロマーン・ロスティスラーヴィチはこれを拒否。こうして両者は決裂した。
1173年(72年?)、アンドレイ・ボゴリューブスキイの圧力に屈し、ロマーン・ロスティスラーヴィチはキエフを去ってスモレンスクに帰還した。キエフ大公にはアンドレイ・ボゴリューブスキイが別の弟ミハルコ・ユーリエヴィチ(実際には末弟フセーヴォロド大巣公)を据えるが、直後にロスティスラーヴィチ兄弟が反撃。フセーヴォロド大巣公を追い、ノーヴゴロドを追われていたリューリク・ロスティスラーヴィチがキエフ大公となった。
しかしリューリク・ロスティスラーヴィチの大公位も安定せず、ムスティスラーフ・イジャスラーヴィチの弟ヤロスラーフ・イジャスラーヴィチ、さらにはチェルニーゴフ公スヴャトスラーフ・フセヴォローディチもからんで、三つ巴の争いが展開される。
1175年、アンドレイ・ボゴリューブスキイが死去。ロマーン・ロスティスラーヴィチはこれに乗じてキエフを奪還。ヤロスラーフ・イジャスラーヴィチは戦いもせずにルーツクに逃げ帰った。
1177年、ロマーン・ロスティスラーヴィチは諸公を集めてポーロヴェツ人に対して遠征。しかしダヴィド・ロスティスラーヴィチとの兄弟喧嘩が生じて、ロストーヴェツ近郊でポーロヴェツ人に大敗を喫してしまう。
この混乱に乗じてスヴャトスラーフ・フセヴォローディチがキエフに侵攻。ロマーン・ロスティスラーヴィチはベールゴロドに逃亡し、スヴャトスラーフ・フセヴォローディチがキエフを奪った。
末弟ムスティスラーフ勇敢公がスモレンスクから救援に駆け付け、スヴャトスラーフ・フセヴォローディチをチェルニーゴフに追い返した。
しかしロマーン・ロスティスラーヴィチは、これ以上ルーシ諸公間の内紛を続けることを良しとせず、キエフをスヴャトスラーフ・フセヴォローディチに譲り、スモレンスクに帰還した。
1178年(79年?)、ノーヴゴロドに公として招かれる。しかし半年も経たないうちにスモレンスクに帰還した。
年代記の伝えるところによると、ロマーン・ロスティスラーヴィチは家臣のことを気遣う主君であり、そのため手持ちの金を惜しまず家臣のために使い、死んだ時には貧窮状態にあったという。スモレンスク市民はその葬儀のためにみなで金を出し合った。