ロシア学事始ロシアの君主リューリク家人名録系図人名一覧

リューリク家人名録

ロマーン・グレーボヴィチ

Роман Глебович

生:?
没:?

父:スモレンスク大公グレーブ・ロスティスラーヴィチロスティスラーフ・ムスティスラーヴィチ
母:?

結婚:?

子:

生没年
母親不詳
1ドミートリイ
2ヴァシーリイ
3ガリツィア王レフ2世

第14世代。モノマーシチ(スモレンスク系)。

 生年は不明。兄と思われるアレクサンドル・グレーボヴィチの生年を1255年頃とする文献があるが、そうだとするとロマーン・グレーボヴィチの生年は1250年代後半というところか。

 分領も不明。この頃のスモレンスク系一族は、スモレンスク大公となるまでの分領がまったくわからない。スモレンスク大公になれなかった者については、結局死ぬまでどこを分領としていたのかわからないままである。
 ロマーン・グレーボヴィチも後者のパターンにあてはまるが、その分領についてはいくつかの説がある。

 まず、ムスティスラーヴリ公だったとする文献がある。
 ただしこれは、叔父のミハイール・ロスティスラーヴィチ、兄のアレクサンドル・グレーボヴィチの場合と同じように、どこかを分領としていたと思われるが史料上確認できない、だから当時分領になり得たと思われる唯一の都市であるムスティスラーヴリが分領だったということにしよう、ということだろう。

 1293年までノーヴゴロド公だったとする文献もある。
 当時のノーヴゴロド公アンドレイ・アレクサンドロヴィチは «本職» はヴラディーミル大公で、ノーヴゴロドは代官を派遣して支配していた。そのアンドレイ・アレクサンドロヴィチは1292年からサライに赴いてルーシを留守にしている。帰国は1293年。
 つまりロマーン・グレーボヴィチがノーヴゴロド公になっていたとしたら、アンドレイ・アレクサンドロヴィチの不在中に公位を掠め取り、帰国後に追い出された、というところだろう。だとすれば、1221年以来ヴラディーミル系に独占されてきたノーヴゴロド公位を取り戻し、かつてスモレンスク系が握っていたノーヴゴロドに対する覇権を再確立したいという思惑があったのかもしれない。
 しかし実はこれは少々おかしい。1293年、ロマーン・グレーボヴィチはまさにアンドレイ・アレクサンドロヴィチの命に従い、ノーヴゴロド軍を率いてスウェーデン領カレリアに侵攻している。ということは、むしろ逆に、アンドレイ・アレクサンドロヴィチの不在中にその «代官» としてノーヴゴロドを治めていた、ということなのではないだろうか(もし本当にロマーン・グレーボヴィチが1293年までノーヴゴロドを支配していたとするならば、だが)。

 1289年から1308年までブリャンスク公だったとする文献もある。
 確かに1288年頃にブリャンスク公ロマーン老公が死に、跡を継いだオレーグ・ロマーノヴィチもすぐに修道士となって弟に公位を譲っている。その弟ミハイール・ロマーノヴィチについてはよくわかっていない(この時期ブリャンスク公だったのは別のミハイールだとする説もある)。このような史料上の混乱ぶりを見ると、実はこの頃ロマーン・グレーボヴィチがブリャンスク公になっていたとしても問題はない。
 モンゴル襲来で崩壊したチェルニーゴフ公領の混乱に付け込み、スモレンスク系一族が最寄りのブリャンスクを奪ったとしても不思議はなく、事実1309年には弟(?)のスヴャトスラーフ・グレーボヴィチブリャンスク公となっている。

 1297年には、叔父のフョードル黒公からスモレンスク大公位を奪った兄アレクサンドル・グレーボヴィチが、弟(?)のスヴャトスラーフ・グレーボヴィチにモジャイスクを与えている。当然、ロマーン・グレーボヴィチも、最低この時点でどこかを分領としていただろうと想像される。

 ロマーン・グレーボヴィチについて、唯一確実にわかっているのは、おそらく次の出来事だけ。
 1301年(00年?)、ロマーン・グレーボヴィチは兄アレクサンドル・グレーボヴィチに従いドロゴブージュを攻略。しかしドロゴブージュの救援に駆けつけたヴャージマ公アンドレイ・ミハイロヴィチにより撃退された。

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最終更新日 07 03 2013

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