ムスティスラーフ・ダヴィドヴィチ
Мстислав Давыдович
ノーヴゴロド公 князь Новгородский (1184-87)
ヴィーシュゴロド公 князь Вышгородский (1187-89)
生:?
没:1189
父:スモレンスク公ダヴィド・ロスティスラーヴィチ (スモレンスク公ロスティスラーフ・ムスティスラーヴィチ)
母:?
結婚:?
子:
第11世代。モノマーシチ(スモレンスク系)。
ダヴィドヴィチ兄弟には、ムスティスラーフがふたりいる。これが実にややこしいが、年長のムスティスラーフは1189年に死んでおり、年少のムスティスラーフは1193年に生まれているので、長男にちなんで末男を名付けた、というところだろう(ちなみに当時はまだ生存中の兄の名を弟につけるということはなかった)。兄弟で同じ名だが、生涯が重なっていないので、年代記も特に添え名をつけて呼び分ける、ということはしていない。
ただし厳密に言えば、ムスティスラーフ兄が長男か、ムスティスラーフ弟が末男かはわからない。イジャスラーフという兄弟もいたが、かれは1185年頃に言及されているだけで、そのためムスティスラーフ弟よりは年長だったことは確かだが、ムスティスラーフ兄との順は不明。またコンスタンティーンという兄弟もいて、これは没年が1219年だが、それにしては分領がわからないというのが解せない。あるいはまだ年少だったために分領を与えられなかったということか。だとすると、コンスタンティーンが末男ということになろう。
イジャスラーフとコンスタンティーンがどこに入るにせよ、ムスティスラーフ兄がムスティスラーフ弟とかなり年が離れていたのは確かだろう。1184年にノーヴゴロド公となっているところからすると、遅くとも1170年頃には生まれていたのではないかと思うが、あるいはもっと幼少で、ただのお飾りとしてノーヴゴロドに送り込まれたということもあり得る。
ちなみに、もしそうだとするならば、ムスティスラーフ兄とムスティスラーフ弟とは異母兄弟だったのではないだろうか。
1184年、ヤロスラーフ・ヴラディーミロヴィチがノーヴゴロド公位を追われる。代わってムスティスラーフ・ダヴィドヴィチが、父によりノーヴゴロドに送り込まれた。
1187年、ヤロスラーフ・ヴラディーミロヴィチを支援するヴラディーミル大公フセーヴォロド大巣公がノーヴゴロドに侵攻。ヤロスラーフ・ヴラディーミロヴィチがノーヴゴロド公に返り咲いた。ノーヴゴロドを追われたムスティスラーフ・ダヴィドヴィチは、南ルーシに赴き、叔父リューリク・ロスティスラーヴィチからヴィーシュゴロドを与えられた。父が永年ヴィーシュゴロド公だったので、«ヴォーッチナ(父祖の地)» を与えられた、というところだろう。
父のもとに帰ればいいのに、わざわざキエフの叔父のもとに赴いている(しかも分領をもらっている)というのは、やはりムスティスラーフ・ダヴィドヴィチはこの時点で一人前の年齢に達していたのだろう。
タティーシチェフは、ポーロツク公ボリース・ダヴィドヴィチをムスティスラーフ・ダヴィドヴィチと同一人物だとしている。ボリース・ダヴィドヴィチのポーロツク公位は1215年から1222年までと想定されているので、ムスティスラーフ・ダヴィドヴィチは死なずに生きていたということだろうか。スモレンスクはポーロツクに大きな影響力を保持していたので、スモレンスク系一族がポーロツク公になるということ自体はあり得ないことではない。事実1222年にポーロツク公となったスヴャトスラーフ・ムスティスラーヴィチは、従兄弟の子である。