ムスティスラーフ・ダヴィドヴィチ
Мстислав Давыдович
スモレンスク公 князь Смоленский (1219-30)
生:1193
没:1230
父:スモレンスク公ダヴィド・ロスティスラーヴィチ (スモレンスク公ロスティスラーフ・ムスティスラーヴィチ)
母:?
結婚:?
子:
名 | 生没年 | ||
---|---|---|---|
母親不詳 | |||
1 | ロスティスラーフ |
第11世代。モノマーシチ(スモレンスク系)。洗礼名フョードル。
1197年に父が死去。従兄弟のムスティスラーフ老公がスモレンスク公位を継いだ。
この時点ではムスティスラーフ・ダヴィドヴィチはまだ4歳。ヤロポルク・ロマーノヴィチ、ムスティスラーフ・ダヴィドヴィチは死んでいたとしても、ロスティスラーフとヴラディーミルのリューリコヴィチ兄弟(その父のリューリク・ロスティスラーヴィチも)、ムスティスラーフ幸運公 & ヴラディーミル & ダヴィドのムスティスラーヴィチ兄弟など、一族は数多かった。とはいえリューリコヴィチ兄弟とムスティスラーヴィチ兄弟は、キエフ大公のリューリク・ロスティスラーヴィチの下で南ルーシで活躍しており、スモレンスクに残っていたのはムスティスラーフ老公とムスティスラーフ・ダヴィドヴィチだけだった。
1214年、ムスティスラーフ老公がキエフ大公に、ヴラディーミル・リューリコヴィチがスモレンスク公になる。ムスティスラーフ・ダヴィドヴィチはこれに次いで、スモレンスク系一族のナンバー3であった。
1219年、ヴラディーミル・リューリコヴィチに代わって、ムスティスラーフ・ダヴィドヴィチがスモレンスク公となる。
この事情についてはよくわからないが、おそらくヴラディーミル・リューリコヴィチが南ルーシ(キエフ公領)に領土を獲得したので、スモレンスク公位を棄てたということだろうと推測される。
1221年、ノーヴゴロド公フセーヴォロド・ムスティスラーヴィチが市民に公位を追われる。これ以降、スモレンスク系一族からノーヴゴロド公はひとりも出ていない。ノーヴゴロドにおけるスモレンスク系一族の影響力は(完全にではないにせよ)失われた。
1222年、ポーロツクを占領。一族のスヴャトスラーフ・ムスティスラーヴィチをポーロツク公に据えた。
ポーロツクでは公のボリース・ダヴィドヴィチが国内を抑えられず、どうやら混乱していたらしい。ムスティスラーフ・ダヴィドヴィチのポーロツク占領はこれに乗じたものだろう(ただしボリース・ダヴィドヴィチがいつまでポーロツク公だったかは不明)。
タティーシチェフはボリース・ダヴィドヴィチを、ムスティスラーフ・ダヴィドヴィチの兄のムスティスラーフ・ダヴィドヴィチのこととしている。兄は1189年に死んでいると思われるので、この説は成立しないと思うが、すでに50年以上前にも父がヴィテブスク公になっており、いずれにせよスモレンスクが西のポーロツクに大きな影響力を保持していた状況は窺われる。
1223年のカルカ河畔の戦いにはスモレンスク軍も従軍しているが、ムスティスラーフ・ダヴィドヴィチ自身については年代記は言及していない。しかしこの戦いでムスティスラーフ老公が死に、ヴラディーミル・リューリコヴィチがキエフ大公となっている。スモレンスク系一族は、依然としてキエフにおける覇権を維持していた。
1225年(26年?)、リトアニア人がトルジョークやトローペツに侵攻(ノーヴゴロド南西部やスモレンスク北西部)。しかしこれを撃退したのは、ムスティスラーフ・ダヴィドヴィチではなく、ノーヴゴロド公でもあった、ペレヤスラーヴリ=ザレスキイ公ヤロスラーフ・フセヴォローディチだった。なおこの戦いには、従兄弟のプスコーフ公ヴラディーミルとトローペツ公ダヴィドのムスティスラーヴィチ兄弟も従軍している。
こうして見てみると、ムスティスラーフ・ダヴィドヴィチについては何もわかっていないことがわかる。ポーロツク占領にしても、これをスヴャトスラーフ・ムスティスラーヴィチの行動と見なすならば、ムスティスラーフ・ダヴィドヴィチが自ら積極的にかかわった出来事というのは何ひとつ記録に残っていないことになってしまう。
スモレンスク系一族は依然として南ルーシの覇権は握り続けていたものの、それもムスティスラーフ・ダヴィドヴィチの関知するところではない。記録の不備があるにせよ、逆にノーヴゴロドを失い、リトアニア人の侵攻を傍観していて、11年間もスモレンスク公でありながら、しかも全ルーシに多大な影響力を持つスモレンスク系一族の長でありながら、ムスティスラーフ・ダヴィドヴィチは何をやっていたのだろう。従兄弟同士のほかのふたりのムスティスラーフ(ムスティスラーフ老公とムスティスラーフ幸運公)の活躍が華々しいだけに、ムスティスラーフ・ダヴィドヴィチの無為がよけいに目立つ。