コンスタンティーン・ダヴィドヴィチ
Константин Давыдович
生:?
没:1218
父:スモレンスク公ダヴィド・ロスティスラーヴィチ (スモレンスク公ロスティスラーフ・ムスティスラーヴィチ)
母:?
結婚:?
子:
名 | 生没年 | ||
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母親不詳 | |||
グレーブ | フォミンスク |
第11世代。モノマーシチ(スモレンスク系)。
生年は不明。
1218年(19年?)に死んだとされているが、分領がわからない。ということは、あるいは、1218年の時点でまだ若く、分領をもらっていなかったということだろうか。兄弟のムスティスラーフ・ダヴィドヴィチの生年が1193年とされているが、コンスタンティーンがその弟だとすれば、それもあり得ないことではない。
もっとも、兄だとしても、分領をもらっていなかった可能性はある。
スモレンスクでは、情報が不足していることもあるが、ヴャージマ、トローペツ、フォミンスク、ムスティスラーヴリ、モジャイスク以外の分領の存在が(おそらく)知られていない。この数自体は決して少ないものではないが、13世紀初頭以前に話を限ると、存在した分領はトローペツだけである。この頃、あるいはヴャージマとフォミンスクが新たに分領として成立したかもしれないが、確実なのは半世紀ほど後になってからである。モジャイスクもその頃で、ムスティスラーヴリに至ってはおそらくリトアニアに占領された後に分領となった。
ムスティスラーフ・ダヴィドヴィチにしても、あるいはヴラディーミル・リューリコヴィチやフセーヴォロド・ムスティスラーヴィチにしても、スモレンスク公となる以前の分領については一切不明である。
ひょっとしたら、スモレンスク系では、スモレンスク公以外の者は誰も分領を持たずにスモレンスク公の厄介になっていたのかもしれない。だからこそスモレンスク系の諸公は挙って南ルーシに進出したということなのかもしれない。
ただし、コンスタンティーン・ダヴィドヴィチの子孫はフォミンスクを «ヴォーッチナ(父祖の地)» として世襲している。あるいはコンスタンティーン・ダヴィドヴィチ自身が、初代のフォミンスク公だったのかもしれない。