ダヴィド・ロスティスラーヴィチ
Давыд Ростиславич
ノーヴゴロド公 князь Новгородский (1154)
トルジョーク公 князь Торжский (1158-61)
ヴィテブスク公 князь Витебский (1165-67)
ヴィーシュゴロド公 князь Вышгородский (1167-80)
スモレンスク公 князь Смоленский (1180-97)
生:1140
没:1197.04.23
父:スモレンスク公ロスティスラーフ・ムスティスラーヴィチ (キエフ大公ムスティスラーフ偉大公)
母:?
結婚:?
子:
名 | 生没年 | ||
---|---|---|---|
母親不詳 | |||
1 | ムスティスラーフ | -1187 | ノーヴゴロド |
2 | イジャスラーフ | ||
3 | コンスタンティーン | -1218 | |
4 | ムスティスラーフ | 1193-1230 | スモレンスク |
5 | ? | リャザニ公グレーブ | |
6 | ? | ヴィテブスク公ヴァシリコ |
第10世代。モノマーシチ(スモレンスク系)。
ロスティスラーヴィチ兄弟の生年、長幼の順についてはまったくはっきりしない。唯一、例外的にダヴィドの生年が1140年と知られている。
ところが長幼の順となると、非常に悩ましい。問題はリューリクがダヴィドより年長か年少か、に尽きる。
一般的には、おそらくロマーン、リューリク、ダヴィドの順と考えられているようだ(スヴャトスラーフがこのどこに入るかも問題で、ダヴィドを四男としている文献もある)。
しかし年代記への初登場は、リューリクが1157年であるのに対してダヴィドは1154年。しかも、リューリクがオーヴルチという重要性のほとんど感じられない都市の公として、であるのに対して、ダヴィドはキエフ大公となる父からノーヴゴロドを譲られる形で登場してくる。この扱いの差を見てみると、どうにもダヴィドの方がリューリクより年長だとしか思えない。
おそらくこの点に関しては、現存する史料からは確定的なことは言えないだろう。とりあえずここでは、通例(?)に従い、ダヴィドをリューリクの弟として記述する。
1154年、ノーヴゴロドを去るに当たり、父はダヴィド・ロスティスラーヴィチをノーヴゴロド公として残した(長兄ロマーンの後任として派遣された?)。しかし父の治世に不満を持っていたノーヴゴロド市民は、やがてダヴィド・ロスティスラーヴィチを追い出す。
1158年、再びノーヴゴロドを制圧した父は、ノーヴゴロドにはスヴャトスラーフ・ロスティスラーヴィチを、そしてトルジョーク(ノーヴゴロド領)にダヴィド・ロスティスラーヴィチを据えた。
同年、一族との内紛を繰り広げるドルツク公ローグヴォロド・ボリーソヴィチを、兄弟のロマーン & リューリクとともに支援する。
当時父は、ポーロツク系諸公の内紛に乗じてポーロツクに勢力を拡大していたが、1165年、ダヴィド・ロスティスラーヴィチはヴィテブスクを奪い、ヴィテブスク公ロマーン・ヴャチェスラーヴィチにはヴァシーリエフとクラースヌィーを与えた。
1167年、ミンスク公ヴォロダーリ・グレーボヴィチがダヴィド・ロスティスラーヴィチと戦争を開始。ダヴィド・ロスティスラーヴィチはヴォロダーリ・グレーボヴィチを追い、フセスラーフ・ヴァシリコヴィチをポーロツク公とした。
この年、父が死去。ムスティスラーフ・イジャスラーヴィチのキエフ大公就任に伴い、ダヴィド・ロスティスラーヴィチはヴィテブスクを去ってヴィーシュゴロド公となる。おそらくロスティスラーヴィチ兄弟がムスティスラーフ・イジャスラーヴィチのキエフ大公就任を支持したためだろう。
しかし父の晩年ムスティスラーフ・イジャスラーヴィチとの関係はぎくしゃくしたものとなっており、そのため1168年にムスティスラーフ・イジャスラーヴィチとアンドレイ・ボゴリューブスキイとが対立すると、ロスティスラーヴィチ兄弟はこぞってアンドレイ・ボゴリューブスキイ側に立つ。
キエフ近郊のヴィーシュゴロドを領土とするダヴィド・ロスティスラーヴィチは戦いの最前線に立たされたが、1170年にもムスティスラーフ・イジャスラーヴィチのヴィーシュゴロド攻囲を打ち破っている。
1171年、キエフ大公グレーブ・ユーリエヴィチが死ぬと、ロスティスラーヴィチ兄弟はヴラディーミル・マーチェシチをキエフ大公とする。もっともその直後にヴラディーミル・マーチェシチは死に、ロスティスラーヴィチ兄弟はアンドレイ・ボゴリューブスキイの同意のもと、長兄(?)ロマーン・ロスティスラーヴィチをキエフ大公とした。
これ以前からリューリクはオーヴルチを領有しており、さらにおそらくこの時ムスティスラーフ勇敢公がベールゴロド公となっている。ヴィーシュゴロドを支配するダヴィドをあわせて、ロスティスラーヴィチ兄弟がキエフ公領を制圧した。
しかしその直後、ロスティスラーヴィチ兄弟とアンドレイ・ボゴリューブスキイとの関係が悪化。ダヴィド・ロスティスラーヴィチはヴィーシュゴロドを追われ、ガーリチ公ヤロスラーフ・オスモムィスルを頼るが、支援は得られなかった。
その後南ルーシにおけるアンドレイ・ボゴリューブスキイの覇権は失われ、ダヴィド・ロスティスラーヴィチもヴィーシュゴロドに帰還した。
1175年、ノーヴゴロド=セーヴェルスキイ公オレーグ・スヴャトスラーヴィチを支援してチェルニーゴフに侵攻。
1177年、兄弟とともにポーロヴェツ人遠征に。しかし途中で喧嘩をし、遠征は失敗に終わる。逆にポーロヴェツ人がルーシに侵攻。ロストーヴェツ近郊でロスティスラーヴィチ兄弟は大敗を喫する。
これに乗じてチェルニーゴフ公スヴャトスラーフ・フセヴォローディチがキエフ大公位を狙う。ロマーン & リューリクはスヴャトスラーフ・フセヴォローディチにキエフを譲り渡す。しかし依然としてキエフ近郊のベールゴロド、ヴィーシュゴロドはロスティスラーヴィチ兄弟が領有していた(それぞれリューリク・ロスティスラーヴィチとダヴィド・ロスティスラーヴィチ)。こうしてふたりのロスティスラーヴィチ兄弟は70年代を通じて、キエフ大公位そのものは他者に譲っていたとしても、キエフ公領に大きな影響力を保持した(末弟ムスティスラーフ勇敢公は1170年代半ばにはスモレンスクに去っている)。
1180年、スヴャトスラーフ・フセヴォローディチはキエフ周辺のロスティスラーヴィチ兄弟領を征服しようと、手始めにダヴィド・ロスティスラーヴィチを襲う。ダヴィド・ロスティスラーヴィチはベールゴロドのリューリク・ロスティスラーヴィチのもとに逃亡。リューリク・ロスティスラーヴィチにより長兄ロマーン・ロスティスラーヴィチの救援を仰ぐためスモレンスクに派遣される。
しかしスモレンスクではちょうどロマーン・ロスティスラーヴィチが死んだところで、ダヴィド・ロスティスラーヴィチは市民に推されスモレンスク公位を継いだ。こうして13年にわたるダヴィド・ロスティスラーヴィチの南ルーシでの活動に終止符が打たれた。
なお、この時ヴィテブスク公ブリャチスラーフ・ヴァシリコヴィチがスヴャトスラーフ・フセヴォローディチと同盟してダヴィド・ロスティスラーヴィチと対立。スモレンスクのポーロツクに対する影響力にも一時陰りが見えた。
さらにこの年、末弟のムスティスラーフ勇敢公が死去。スヴャトスラーフ・フセヴォローディチの息子ヴラディーミルがノーヴゴロド公となっている。ヴラディーミル・スヴャトスラーヴィチはすぐにノーヴゴロドを追われるが、後任となったのはヴラディーミル=スーズダリ公フセーヴォロド大巣公が推すヤロスラーフ・ヴラディーミロヴィチ(ふたりの妻は姉妹同士)。スモレンスク系一族のノーヴゴロドに対する覇権も揺らぎはじめた。
1182年、スヴャトスラーフ・フセヴォローディチと和解。ダヴィド・ロスティスラーヴィチが南ルーシに戻ることはなかったが、リューリク・ロスティスラーヴィチがキエフ公領における覇権を再確立した。
1184年、ヤロスラーフ・ヴラディーミロヴィチを追放したノーヴゴロド市民の要請に応え、長男ムスティスラーフを公として派遣。
1185年、ポーロヴェツ人遠征でドニェプルへ(『イーゴリ軍記』のイーゴリ・スヴャトスラーヴィチの遠征とは無関係)。その後さらにポーロツクへ。
1186年、スモレンスクで叛乱が勃発するが、ダヴィド・ロスティスラーヴィチはこれを鎮圧した。
1187年、フセーヴォロド大巣公がノーヴゴロドに侵攻し、ムスティスラーフ・ダヴィドヴィチを追ってヤロスラーフ・ヴラディーミロヴィチをノーヴゴロド公とした。
1187年、ガーリチ公ヤロスラーフ・オスモムィスルが死去。嫡子ヴラディーミルと私生児オレーグが後継の座を巡って争う。
ガーリチ系には、1145年以来領土を追われていたイヴァン・ベルラードニクの遺児ロスティスラーフ・イヴァーノヴィチがおり、当時ダヴィド・ロスティスラーヴィチがこれを庇護していた。ヴラディーミルとオレーグの争いの中、ロスティスラーフ・イヴァーノヴィチを呼び戻そうとする動きがあり、1189年、ダヴィド・ロスティスラーヴィチはロスティスラーフ・イヴァーノヴィチを送りだした(しかし公位獲得には失敗した)。
1190年、リューリク・ロスティスラーヴィチとスヴャトスラーフ・フセヴォローディチとの関係が悪化し、この関係でスヴャトスラーフ・フセヴォローディチがスモレンスクに侵攻。しかし結局スヴャトスラーフ・フセヴォローディチが折れて、事態は沈静化した。
1196年、リューリク・ロスティスラーヴィチがヴォルィニに軍を派遣した隙を衝いて、ヴラディーミル=ヴォルィンスキイ公ロマーン偉大公と同盟するチェルニーゴフ公ヤロスラーフ・フセヴォローディチがキエフに侵攻し、さらに甥のオレーグ・スヴャトスラーヴィチをヴィテブスクに侵攻させた。
当時のヴィテブスク公が誰かよくわからないが、おそらくダヴィド・ロスティスラーヴィチの娘婿ヴァシリコ・ブリャチスラーヴィチ。このためだろう、ダヴィド・ロスティスラーヴィチも、甥のムスティスラーフ老公をヴィテブスクに派遣した。
ムスティスラーフ老公は、一旦はチェルニーゴフ軍を撃破するものの、ポーロツク系諸公の支援を得たオレーグ・スヴャトスラーヴィチに敗北し、ポーロツク軍の捕虜となった。
死の直前に修道士となり、公位を甥ムスティスラーフ老公に譲渡。これは当時まだ存命していたリューリク・ロスティスラーヴィチの権利を侵害する行為だったが、おそらくリューリク・ロスティスラーヴィチも納得ずくのことだったのだろう。
スモレンスクに埋葬される。