スヴャトスラーフ・フセヴォローディチ
Святослав Всеволодич
トルブチェフスク公 князь Трубчевский (1232頃)
生:?
没:?
父:トルブチェフスク公フセーヴォロド・スヴャトスラーヴィチ (チェルニーゴフ公スヴャトスラーフ・オーリゴヴィチ)
母:オリガ (ペレヤスラーヴリ公グレーブ・ユーリエヴィチ)
結婚:?
子:
名 | 生没年 | ||
---|---|---|---|
母親不詳 | |||
アンドレイ |
第10世代。スヴャトスラーヴィチ(オーリゴヴィチ)。
父親については異説もあるようだ。
要はこの時期のチェルニーゴフ系諸公については名前ぐらいしかわからない、ということが多いからだが、もし父親が言われるようにフセーヴォロド猛牛公であったとしたら、その誕生が1150年代前半と思われるので(妻もほぼ同じ頃)、スヴャトスラーフ・フセヴォローディチの生年は1170年頃だろうか。
そのフセーヴォロド猛牛公の死が1196年である。トルブチェフスクとクールスクの公だったが、クールスク公位は従兄弟(?)のスヴャトスラーフ・イーゴレヴィチが継いだらしく、スヴャトスラーフ・フセヴォローディチはトルブチェフスク公としてしか知られていない。
1223年のカルカ河畔の戦いには、トルブチェフスク兵も従軍しているとされる。個人名での言及はないが、おそらくスヴャトスラーフ・フセヴォローディチも従軍していたのだろう。
1229年から1230年にかけて、チェルニーゴフ公ミハイール・フセヴォローディチがペレヤスラーヴリ=ザレスキイ公ヤロスラーフ・フセヴォローディチとノーヴゴロド公位を争った際には、スヴャトスラーフ・フセヴォローディチがミハイール・フセヴォローディチの代理人としてプスコーフにまで赴き、ノーヴゴロド市民と交渉している。
1232年頃に言及されているが、それがおそらく年代記に登場する唯一の例であろう。1170年頃に生まれたとすれば、おそらくこの頃に死んだのだろう。