スヴャトスラーフ・アンドレーエヴィチ
Святослав Андреевич
リペツク公 князь Липецкий (-1285)
生:?
没:1285
父:トルブチェフスク公アンドレイ・スヴャトスラーヴィチ (トルブチェフスク公スヴャトスラーフ・フセヴォローディチ)?
母:?
結婚:?
子:?
第12世代。スヴャトスラーヴィチ(オーリゴヴィチ)。
ただし父親は厳密には不明。同じくオーリゴヴィチのルィリスク系の出だとする説もある。
1283年、ルィリスク公オレーグ・ムスティスラーヴィチがハーンの代官アフマトと対立すると、スヴャトスラーフ・アンドレーエヴィチもともに立ち上がる。しかしアフマトは、当時キプチャク・ハーン国の実権を握っていたノガイの庇護下にあり、1284年にはその軍を率いてオレーグ・ムスティスラーヴィチの領土を蹂躙する。
これに対して、スヴャトスラーフ・アンドレーエヴィチは徹底抗戦を続けるが、オレーグ・ムスティスラーヴィチはサライに赴き、その庇護を受けることとなった。こうして対立する立場に立ったかつての同盟者は、スヴャトスラーフ・アンドレーエヴィチが抵抗を続ければ続けるほど自分の領土が荒廃していくと心配し、ノガイと和解するよう要求した。
スヴャトスラーフ・アンドレーエヴィチはこれを拒否。オレーグ・ムスティスラーヴィチ率いるタタール軍と戦い、戦死した。