オレーグ・ムスティスラーヴィチ
Олег Мстиславич
ルィリスク公 князь Вергольский и Рыльский
生:?
没:1285
父:ルィリスク公ムスティスラーフ・スヴャトスラーヴィチ (ルィリスク公スヴャトスラーフ・オーリゴヴィチ)?
母:?
結婚:?
子:?
第12世代。スヴャトスラーヴィチ(オーリゴヴィチ)。
オレーグ・ムスティスラーヴィチの分領内に、1283年頃、ハーンの代官アフマトが自分の居留地をつくる。ここには多数の逃亡者が集まり、周辺住民に多大の被害をもたらしたので、困ったオレーグ・ムスティスラーヴィチは隣人のリペツク公スヴャトスラーフ・アンドレーエヴィチとともにハーンのトゥダ=メング(甥のトゥラ=ブガ?)に訴え出た。これに対してトゥラ=ブガ(トゥダ=メング?)は、オレーグたちにアフマトの居留地を破壊する許可を与えた。
しかしこのアフマトは、当時キプチャク・ハーン国で最大の実力者だったノガイが代官に任命したもので、その庇護下にあった。ノガイはオレーグ・ムスティスラーヴィチを自分のもとに召喚するが、オレーグ・ムスティスラーヴィチはこれを無視。ノガイは軍を派遣し、アフマトはオレーグ・ムスティスラーヴィチの分領を蹂躙。オレーグ・ムスティスラーヴィチはトゥラ=ブガ(トゥダ=メング?)のもとへ逃亡した。
翌1285年、スヴャトスラーフ・アンドレーエヴィチはアフマトの居留地を攻略。オレーグ・ムスティスラーヴィチはスヴャトスラーフ・アンドレーエヴィチに、サライに来てノガイに釈明するよう要求。スヴャトスラーフ・アンドレーエヴィチがこれを拒否すると、オレーグ・ムスティスラーヴィチはモンゴル軍を率いてかれを戦死させた。その弟アレクサンドル・アンドレーエヴィチは、サライに赴いてノガイを買収。今度はかれがモンゴル軍を率い、オレーグ・ムスティスラーヴィチとそのふたりの息子を戦死させた。