ロシア学事始ロシアの君主リューリク家人名録系図人名一覧

リューリク家人名録

ヤロポルク・スヴャトスラーヴィチ

Ярополк Святославич

キエフ大公 великий князь Киевский (970-980)

生:?
没:980

父:キエフ大公スヴャトスラーフ・イーゴレヴィチ (キエフ大公イーゴリ・リューリコヴィチ
母:?

結婚:
  & ギリシャ人(元修道女)

婚約:
  & ログネーダポーロツク公ローグヴォロド)

子:

生没年
ギリシャ人修道女と
?スヴャトポルク-1019キエフ

第4世代。スヴャトスラーフ・イーゴレヴィチの長男。

 ヤロポルクたちスヴャトスラーフの息子たちの生年は不明。
 父の誕生も不明で、927年説もあるが、一般的には942年説の方が有力であろう(詳細についてはスヴャトスラーフの項を参照のこと)。前者であればヤロポルクの生年も940年代半ばが上限となろう。しかし後者であれば、どう考えても960年頃が上限となる。下限は970年マイナス数年、といったところか。970年の時点で末弟ヴラディーミルがいるので(0歳であった可能性も完全には否定できないだろうが)、ヤロポルクの生年がそれより数年前であるのは間違いない。
 末弟ヴラディーミルの生年によってヤロポルクの生年の下限も変わってくるわけだが、ヴラディーミルの生年がまたよくわからない。当該項目を参照していただきたいが、960年代に生まれたらしく思われる一方、960年以前には生まれていたと考えざるを得ない史料もある。

 970年、第二次ブルガリア遠征に先立ち、父はヤロポルクたち3人の息子にキエフ・ルーシを分配した。すなわち、長子ヤロポルクにキエフを、次子オレーグにドレヴリャーネ人の地を与えている。この時ノーヴゴロドの代表が自分たちにも自前の公を寄越せと父に迫ったことから、ヤロポルクもオレーグノーヴゴロド公位を提案されるが、どちらも断っている。結局、末子ヴラディーミルがノーヴゴロドに派遣された。
 この『原初年代記』の記述を額面通り受け取るとすると、この時点でヤロポルクはある程度の年齢に達していたことになる。なお、第二次ブルガリア遠征の開始をビザンティン系史料は969年のこととしており、どうもこちらの方が信憑性が高そうである。とすれば、ヤロポルクたちが領土を与えられたのも当然それ以前ということになろう。
 父は967年に第一次ブルガリア遠征に赴いている。この時は、ヤロポルクたちにキエフ・ルーシを分配していない。一方から言えば、これは父がこの時点ではブルガリア遠征を一時的な «出稼ぎ仕事» と見なしていた証とも取れるが、他方においてこの時点ではヤロポルクたちがまだ幼齢だったためとも考えることができよう。
 実際、968年にペチェネーギがキエフに襲来した際に、居残っていたヤロポルクが防衛を指揮した、というような話は『原初年代記』にはない。すでにこの時点である程度の年齢に達していれば、スヴャトスラーフの長男であるから、ヤロポルクが名目上だけでも防衛の指揮をとっていていいはずである。そう考えると、やはりこの時点ではまだヤロポルクは幼かったということだろうか。

 『原初年代記』は、ヤロポルクの妻について次のように伝えている。すなわち彼女はギリシャ人修道女で、スヴャトスラーフが連れてきてヤロポルクに与えたのだという。
 何に拠ったかカラムジーンは、彼女をスヴャトスラーフの «捕虜» としている。おそらくこれに依拠してのことと思われるが、たいていの文献では彼女はスヴャトスラーフがビザンティンとの戦いで得た戦争捕虜だとされている。だとすれば970年以降の話だが、スヴャトスラーフは969年以降ルーシの地に帰っていない(死体となってすら)。ゆえにその前の、第一次ブルガリア遠征で得た捕虜としか考えられないが、第一次ブルガリア遠征ではスヴャトスラーフがビザンティンと戦った形跡はない。それどころか、ビザンティン帝国領に入ったことすらなさそうだ。
 百歩譲って第一次遠征で得られた捕虜だとすると、これは967年から968年にかけての時期となる。
 しかしこの話をブルガリア遠征に結びつける必然性はない。なぜならすでにキエフ・ルーシにはある程度キリスト教が普及しており、キエフにも教会が建っていたからである。当然ギリシャ人修道士・修道女もいただろう。スヴャトスラーフが襲撃したハザール帝国にもキリスト教徒はいたし、スヴャトスラーフが襲ったという記録こそないものの、クリミア半島にはビザンティン帝国の植民地があった。あるいは、ペチェネーギの捕虜をスヴャトスラーフが奪ったという可能性もないではない。
 そもそも、このギリシャ人修道女が息子スヴャトポルクを産むのは、980年頃のことである。もちろんそれ以前にも子を産んでいた可能性はあるからこのことだけから何かを言うことはできないが、もしこれが彼女にとって初産だったとすれば、970年や967年からあまりに時間が経ちすぎている。修道女になった時点ですでにある程度の年齢であったろうし、還俗させられてヤロポルクの妻となった970年頃はそれから数年後として、さらに初産が980年頃となれば、彼女の年齢はすでに30歳近くになっていたのではないだろうか。もちろん、結婚後何年も妊娠しなかった女性が高齢になって初産、ということは現実としてあり得るものの、スヴャトスラーフが彼女をヤロポルクに与えた、という記述も疑わしい。結局、このギリシャ人修道女とスヴャトスラーフは無関係だったのではないだろうか。

 972年、スヴャトスラーフが死去。これにより名目上ヤロポルクがキエフ大公ということになったが、すでに見たように、ヤロポルクは970年から(おそらく実際には969年から)実質的なキエフ大公であった。
 ただし問題は、このキエフ大公ドレヴリャーネの公ノーヴゴロド公に対する宗主権を持っていたか、という点である。と言うのも、まさにカラムジーンは「そのような宗主権を持っていなかった」と述べているからである。キエフ・ルーシが複数の公により分割されるのはこれが初めてのことであるから、これは重要な点であるが、現実には確認不可能である。
 980年の時点で、ポーロツクにはローグヴォロド、トゥーロフにはトゥールという独自の公がいた。トゥールについてはその名前以外のことはわからないが、ローグヴォロドについては『原初年代記』が「海の彼方からやって来た」と述べているし、名前からしても明らかにヴァリャーギである。かれがいつポーロツクにやって来たかは不明だが、いずれにせよ972年の時点でポーロツクを主都とするポロチャーネ、トゥールを中心都市とするドレゴヴィチーは、キエフ・ルーシからは独立した政治勢力であったはずである。

ローグヴォロド Rogvolod なる名は、古ノルド語ではラグンヴァルド Ragnvald と再建することができる。

 ヘルスフェルト修道院のランペルトによる年代記では、973年、皇帝オットー2世がクェドリンブルクで復活祭を祝った際に、諸外国の使節も参列していたが、その中にルーシ Rusci の使節もいた。この記事の信憑性については議論があるが、これが本当だとすればヤロポルクが派遣したものであろう。

 1120年頃に編纂されたヴェルフェン家の家系図には、次のような記述がある。

ルドルフはエーニンゲンから妻を迎えた。名はイタといい、その父は著名な伯クーノで、母は皇帝オットー大帝の娘であった。このクーノには4人の息子がいた。シュターデン辺境伯エックベルト、レーオポルト、リウトルト、クーノ、そして4人の娘で、うちひとりがルドルフの妻となり、別のひとりはラインフェルデン出身の何某の妻となってツェーリンゲン家の祖となり、三人目は Rugi の王の妻となり、四人目はアンデクス伯の妻となった。

ヴェルフェン家とはシュヴァーベン(ドイツ南西部)を拠点に、バイエルン(南東部)、ザクセン(北西部)、北イタリアにまで勢力を張った大貴族である。もっともこの場合、ヴェルフェン家は何の関係もない。問題はエーニンゲンのクーノなる人物の素性で、多くの学者はこれをシュヴァーベン公コンラート1世と同一視している。ラテン語の Rugi は通常ルーシを意味したから、これはつまり、シュヴァーベン公コンラート1世の娘がルーシの王の妻となった、と述べていることになる。
 シュヴァーベン公コンラート1世は997年に死んだが、享年がいくつであったかは不明である。ただし983年に皇帝オットー2世からシュヴァーベン公に任命されているので、その時点でかなりの有力者だったことは確かである。かれの子供たちについては誰ひとりこれ以外の情報が残っていない。唯一の例外が、この家系図が挙げていないヘルマンなる息子で、かれは父の後を継いでシュヴァーベン公となり、1003年に対立ドイツ王として戦死している。
 ということで、ルーシの王の妻となった娘の年代について何の手がかりもない。が、«ルーシの王» がキエフ大公のことであったとすれば、ヤロポルクかヴラディーミルしか考えられない。ヘルスフェルト年代記が正しければ、ヤロポルクはオットー2世とつながりを持っており、その姪と結婚したというのは十分あり得る。

 『原初年代記』によれば、975年、リュートなる人物がドレヴリャーネの森で狩りをしていた。かれの父はスヴェネリド、イーゴリスヴャトスラーフの2代のキエフ大公に仕えて数々の手柄を立ててきた重臣である。あるいはその息子という驕りがあったのか、かれが狩りをしていたドレヴリャーネの森は自分の主人ならざるオレーグの領土である。これに怒ったオレーグが、リュートを殺させた。息子の復讐をしようと、スヴェネリドはヤロポルクにオレーグとの対立を煽ったという。
 スヴェネリドは、ノーヴゴロド第一年代記によると、すでに922年にウーリチを征服している。スヴェネリドが年代記から姿を消すのは977年以降であるから、どう考えても享年は80歳近い。あり得ない年齢ではないものの、当時としては驚異的な長命だと言わねばなるまい。ただしノーヴゴロド第一年代記の記述を無視すれば、スヴェネリドの初登場は945年となるから、年齢の問題は解消される。とはいえ、『原初年代記』の描くスヴェネリド像には、いささか不審がある(イーゴリの項参照)。
 何よりこのエピソードは、ヤロポルクによるオレーグ攻撃を説明するためにでっち上げられたのではないか。
 977年、ヤロポルクは突然ドレヴリャーネの地に侵攻。オレーグはこれを迎え撃つが敗北。オーヴルチに逃亡するが、城外の堀に落ちて死んだ。翌日オーヴルチを占領したヤロポルクが弟を捜させると、その遺骸が、堀に折り重なっていた死体の下から発見された。ヤロポルクは弟の遺骸に取りすがって泣き、スヴェネリドに「見ろ、これがお前が望んだことだ」と言った。
 一連の記述からすると、兄弟で殺しあった元凶がスヴェネリドにあったことが強く印象づけられる。しかし事実を見ると、必ずしもそうではなかったように思われる。ヤロポルクがドレヴリャーネの地を併合したのは、主がいなくなったのだから当然の措置であったろう。しかし末弟ヴラディーミルがノーヴゴロドから逃げ出したのはなぜだろう。しかもヤロポルクは代官を送ってノーヴゴロドをも統治下に収めている。オレーグによるリュート殺害などは単なる口実で、ヤロポルクがキエフ・ルーシの統一を目指したからこそ起こった兄弟対立だったと見る方が本質に近いのではないだろうか。
 いずれにせよ、こうしてヤロポルクはかつて父の支配していたキエフ・ルーシの単一の支配者となった(ただしドレゴヴィチーは独自の公を擁していた)。

 何に拠ったかタティーシチェフは、続く数年間のヤロポルクの対外活動を伝えている。
 978年、ヤロポルクはペチェネーギと戦い、貢納を徴収した。
 979年、ヤロポルクのもとにペチェネーギの公イルデヤがやって来て臣従。ヤロポルクはかれに領地を与えて優遇した。
 同年、ビザンティンからも使節が訪れ、従前の条約を確認した。ちなみにそれによると、ビザンティン側はヤロポルクに年金を払い、ヤロポルク側はビザンティン、ブルガール、ケルソネソスに攻め込まず、ビザンティンに軍事支援をすることになっている。971年のスヴャトスラーフとビザンティンとの講和条約では、軍事支援は明確ではないし、少なくとも年金については一切言及されていない。すなわちこの場合の «従前の条約» とは、945年のイーゴリとビザンティンとの条約のことを指すと考えられる。

 980年、ヴラディーミルがヴァリャーギを引き連れてノーヴゴロドに帰還。ヤロポルクに宣戦を布告する。さらにポーロツクを征服。
 時のポーロツク公ローグヴォロドの娘ログネーダは、父親からヴラディーミルと結婚するかどうか尋ねられ、「女奴隷の息子の靴は脱がしたくない。ヤロポルクのところに行きたい」と言ってヴラディーミルを怒らせたと『原初年代記』は述べている。このエピソードが事実とすれば、ヤロポルクとローグヴォロドとは中立的な関係にあったと見ていいだろう。またログネーダの言葉からすると、ヤロポルクの母親は、少なくとも女奴隷ではなかったということになる。なお、ヴラディーミルからの話があった時点では、ローグヴォロドがログネーダにヤロポルクとヴラディーミルのどちらを選ぶか訊いているので、まだ «婚約者» というほどの関係ではなかったのではないかと思われるが、ヴラディーミルがポーロツクを攻略した時点ではログネーダはヤロポルクのもとに送られるところだったとなっている。この間に急速に話がまとまったのだろうか。と言うよりも、話をおもしろくするための作為が感じられる。
 ヴラディーミルはそのまま南下しキエフを攻囲するが、ヤロポルクは打って出ることができず、キエフに篭城したと『原初年代記』は伝えている。他方ヴラディーミルもキエフに突入できず、ドロゴジチなるところに陣を敷いたらしい。どうやら戦闘は行われず、両軍は睨み合いを続けたようだ。両者の勢力が拮抗していたのだろう。
 キエフに篭城したヤロポルクの片腕であったのがブルードなる人物であった。ヴラディーミルはかれに接近し、ふたりの間に密約が結ばれる。ブルードは、キエフ市民がヴラディーミルと通じているかのようにヤロポルクに信じ込ませ、キエフを棄ててロードニャに篭城させた。ヴラディーミルは戦わずしてキエフを占領し、ロードニャを攻囲した。ロードニャでは飢饉が発生し、ブルードはヤロポルクにヴラディーミルとの講和を進言する。これ自体は正しい判断だったかもしれないが、ブルードはその裏でヴラディーミルに、ヤロポルクの殺害を唆していた。ヴァリャジュコなる側近はヤロポルクを止めたが、ヤロポルクはヴラディーミルとの会見に赴いて、ヴァリャーギに殺された。
 ヤロポルクの側近がスヴェネリドからブルードに交代しているが、おそらくスヴェネリドはすでに死んでいたのだろう。ちなみにこの後、ブルードはヴラディーミルに処刑され、ヴァリャジュコはペチェネーギのもとに逃亡してヴラディーミルへの抵抗を続けた。

 一連の記述を読むと、ヤロポルクは、スヴェネリドにせよブルードにせよ、側近の言に左右される弱い個性の人物であったように思われる。タティーシチェフもカラムジーンもかれを好意的に描き出してはいるものの、勃興期の国家を率いるには力不足だったということだろう。
 かれを支えたのは、おそらくは親ビザンティン派の貴族であったろう。タティーシチェフが伝える979年のエピソードをその傍証として挙げることもできるかもしれない。しかしヘルスフェルトのランペルトの記述を信用するならば、ヤロポルクは同時に神聖ローマ帝国とも関係を持っていた。あるいは祖母オリガのコネがあったのかもしれないが、いずれにせよ対外関係に積極的であった様子が覗える。
 ちなみにヨアキーム年代記は、ヤロポルクが「大衆ゆえに自身では(キリスト教に)改宗しなかったものの、誰に対しても禁じるようなこともしなかった」と記している。このようなキリスト教徒への宥和政策もまた、親ビザンティン政策と調和している。そう言えばかれの妻と伝えられるのはギリシャ人修道女である。祖母オリガからして親ビザンティン政策を体現したキリスト教徒であったし、あるいはかれは、ビザンティン的・キリスト教的環境に囲まれていたのかもしれない。

 ヤロポルクの死後ギリシャ人修道女はヴラディーミルの妾となったが、その後生まれたスヴャトポルク・オカヤンヌィイの生物学上の父親はヴラディーミルではなくヤロポルクであったという。これについては多分に疑わしく、詳細はスヴャトポルク・オカヤンヌィイの項を参照のこと。

 1044年、甥のヤロスラーフ賢公によりキエフのデシャティンナヤ教会に改葬された。

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最終更新日 03 01 2015

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