ロシア学事始ロシアの君主リューリク家人名録系図人名一覧

リューリク家人名録

トルヴォル

Трувор

イズボルスク公 князь Изборский (862-864)

生:?
没:864

父:?
母:?

結婚:?

子:?

第1世代。リューリクシネウスの弟。

 シネウスとトルヴォルは、所詮リューリクのおまけでしかない。かれらの招聘譚を、ノーヴゴロド第一年代記で見てみよう。

キイ、シチェク、ホリフの時代、ノーヴゴロドの人々はスロヴェーネ、クリヴィチー、メーリャと呼ばれ、土地を持っていた。スロヴェーネは自身の、クリヴィチーは自身の、メーリャは自身の。それぞれが自身の一族を支配し、チューディは自身の一族を支配し、かれらは男は冬リス一頭づつヴァリャーギに貢納していた。ヴァリャーギはかれらの中に住み、スロヴェーネ、クリヴィチー、メーリャ、チューディに圧迫を加えていた。スロヴェーネ、クリヴィチー、メーリャ、チューディはヴァリャーギに対して立ち上がり、海の彼方へと追いやった。そして自ら治め、都市をまとめだした。しかし自ら戦い始め、かれらの間に大きな戦闘と内訌があった。都市は都市に襲い掛かり、«プラヴダ» がなかった。自らに言った『われらを治め、公正に裁いてくれる公を探そうではないか』。海の彼方へヴァリャーギのもとへ赴いて言った『われらの地は偉大にして豊かだが、指図がない。われらのもとに、われらを治めに来てはくれまいか』。こうして三人兄弟が自らの一族とともに呼ばれ、多数の従士団を引き連れノーヴゴロドにやって来た。長男がノーヴゴロドに、かれの名はリューリクといい、次がベロオーゼロに、シネウスが、そして三人目がイズボルスクに、かれの名はトルヴォルであった。このヴァリャーギ、来訪者たちからルーシと呼ばれるようになり、ルーシの地で通るようになった。ノーヴゴロドの人々は、こんにちにいたるまでヴァリャーギの一族の出である。
  二年後、シネウスと弟トルヴォルが死に、リューリク一人が兄弟たちの領土に権力を確立し、独りで統治し始めた。かれには息子が産まれ、イーゴリと名付けた。……。

 続いて『原初年代記』より。

6370年(861-862)。ヴァリャーギを海の彼方に追った。かれらに貢納を収めず、自身で支配を始めた。しかしかれらの間に «プラヴダ» がなく、一族が一族に対して立ち上がった。内訌があり、互いに戦い始めた。自らに言った『われらを治め、正義に基づき裁いてくれる公を探そうではないか』。海の彼方へヴァリャーギのもとへ、ルーシのもとへ赴いた。他のヴァリャーギがスウェーデン人、別のヴァリャーギがノルマン人やアングル人、さらに別のヴァリャーギがゴトランド人と呼ばれていたように、このヴァリャーギはルーシと呼ばれていた。ルーシにチューディ、スロヴェーネ、クリヴィチー、ヴェーシが言った『われらの地は偉大にして豊かだが、そこには秩序がない。われらを支配し治めに来てくれまいか』。こうして三人兄弟が自らの一族とともに選ばれ、全ルーシを引き連れて、やって来た。長男リューリクはノーヴゴロドに、次のシネウスはベロオーゼロに、三人目のトルヴォルはイズボルスクに住んだ。このヴァリャーギからルーシの地の名で呼ばれるようになった。ノーヴゴロド人というのは、ヴァリャーギの一族出身の人々であり、かつてはスロヴェーネであった。二年後、シネウストルヴォルが死んだ。こうしてリューリクひとりがすべての権力を握り、部下たちに都市を分配し始めた。あるいはポーロツクを、あるいはロストーフを、あるいはベロオーゼロを。……。

 ヨアキーム年代記より。

ゴストムィスルには四人の息子と三人の娘がいた。息子たちは戦で殺されたり、家で死んだりして、一人も残らなかった。娘たちは近隣の公たちに嫁に行った。ゴストムィスルと人々はこのことに大変心を痛め、ゴストムィスルは Kolmogard に、神に遺産について尋ねに行った。高い場所に上ると、多くの犠牲を捧げ、預言者たちに贈り物をした。預言者たちはかれに答えた。神はかれに、かれの女の腹から遺産を与えることを約束していると。しかしゴストムィスルはこれを信じなかった。何となれば、かれは年老いて、妻も産むことはない。ゆえに Zimegol に人をやって預言者に尋ねさせた。かれの子孫がかれから遺産を相続するにはどうすればいいのか、と。このすべてを信じることができず、悲しみに沈んだ。しかし眠れるかれに、ある午後、夢が訪れた。中の娘ウミラの腹から豊かに実った樹木が生え、ヴェリーキーな都市全体を覆い、全土の人々がこの実りに満たされた。夢から目覚め、預言者を呼び寄せ、この夢を語った。かれらは言った『彼女の息子からかれを継ぎ、地はかれの公により豊かになるだろう』。誰もが、長女の息子が継がないことに喜んだ、と言うのも、役立たずだったからだ。ゴストムィスルは、自らの人生の終わりを感じ、土地のすべての長老をスラヴ、ルーシ、チューディ、ヴェーシ、メーリャ、クリヴィチー、ドレゴヴィチーから呼び集め、夢見を伝えて、選ばれた者をヴァリャーギのもとに派遣して公を求めさせた。こうしてゴストムィスルの死後リューリクが二人の弟や一族とともにやって来た。(以下、タティーシチェフは省略している)
 弟たちの死でリューリクは全土を支配し、誰とも戦をおこなわなかった。公となって四回目の年、古いヴェリーキーな都市からイリメニへ新しい都市に移り、祖父がしたように、統治に熱意を示した。……。

 このように、ヨアキーム年代記はシネウスとトルヴォルの名すら記していない。ノーヴゴロド第一年代記にしても『原初年代記』にしても、ふたりについて述べているのはただ次の一点のみである。

 トルヴォルが支配したイズボルスクは、どうやら古くからクリヴィチーの拠点であったらしい。ベロオーゼロがヴェーシの地域にあったこともあわせて考えると、ノーヴゴロドを支配したリューリクがスロヴェーネ(とチューディ)、ベロオーゼロを支配したシネウスがヴェーシ、イズボルスクを支配したトルヴォルがクリヴィチーと、かれらを招聘した諸部族連合を構成する4部族を分割統治した、ということだろうか。

 言語学的には、トルヴォル Truvor は古ノルド語で Þorvaldr と再建することができるらしい。この名は、こんにちでも Torvald という形でノルウェーで一般的な名である。と言われても、古ノルド語を知らないわたし的には、Þorvaldr ⇒ Truvor というのは Ingvar ⇒ Igor と並んで疑わしい気がするのだが。
 この名に関して、ある学者が、おもしろい仮説を述べている。古ノルド語で書かれた次のような史料があった「リューリクは «sine hus» (スウェーデン語で「自分の一族」という意味らしい)と «thru varing» (これまたスウェーデン語で「忠実な従士団」という意味らしい)を引き連れてやって来た」。これを参照した初期ルーシの年代記作家が、«sine hus» と «thru varing» を人名と勘違いし、それぞれシネウス Sineus、トルヴォル Truvor としてしまった、というものである。
 この説の妥当性はともかく、3人兄弟が世界を分割統治したというモティーフも陳腐だし、何をするでもなく2年後に死んだことといい、架空の存在であったとしても不思議がないのは確かであろう。

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最終更新日 30 05 2013

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