ロシア学事始ロシアの君主リューリク家人名録系図人名一覧

リューリク家人名録

オレーグ・スヴャトスラーヴィチ

Олег Святославич

ドレヴリャーネ人の公 князь Древлянский (970-977)

生:?
没:977−オーヴルチ

父:キエフ大公スヴャトスラーフ・イーゴレヴィチ (キエフ大公イーゴリ・リューリコヴィチ
母:?

結婚:?

子:?

第4世代。スヴャトスラーフ・イーゴレヴィチの次男。

 970年、ブルガリア親征に際して、父スヴャトスラーフは、オレーグにドレヴリャーネ人を、兄ヤロポルクキエフを、弟ヴラディーミルノーヴゴロドを委ねる。
 972年、キエフへの帰途、スヴャトスラーフは死去。オレーグたち3兄弟がルーシを分割支配することになった。

 ヤロポルクの側近に、スヴェネリドという人物がいた。975年、スヴェネリドの息子リュートが狩りに出かけ、ドレヴリャーネ人の土地に入りこんだ。たまたまそこで同じく狩りをしていたオレーグが、リュートを殺す。これにより、寵臣の息子を殺されたヤロポルクとオレーグとの間に対立が生じた。
 以上、年代記の伝えるところだが、どこまで信頼できるかは不明。

 977年、オレーグはヤロポルクと戦い、オーヴルチ近郊で敗北。オレーグ・スヴャトスラーヴィチ自身、その直後に死んだ。
 オーヴルチに逃げ込む際にオレーグは都市を取り囲む堀に落ち、そこで死んだらしい。翌日オーヴルチを占領したヤロポルクが探させると、オレーグの遺骸が、堀に折り重なっていた死体の下から発見された。ヤロポルクはオレーグの遺骸に取りすがって泣き、スヴェネリドに「見ろ、これがお前が望んだことだ」と言った。

 母親は不明。結婚していたか否か、子供があったか否かも不明。オレーグの生年は不明ながらも、おそらく960年前後のことだったのではないかと想像される(ヤロポルクの項参照)。とするならば、そもそも結婚もしておらず、子供もいなかった可能性は高い。

 1044年、甥のヤロスラーフ賢公によりキエフのデシャティンナヤ教会に改葬された。

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最終更新日 03 01 2015

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