ロシア学事始ロシアの君主リューリク家人名録系図人名一覧

リューリク家人名録

イーゴリ・リューリコヴィチ «スタールィー»

Игорь Рюрикович "Старый"

キエフ大公 князь Киевский (912-945)

生:?
没:945

父:リューリク
母:?

結婚:903
  & オリガ -969

子:

生没年
オリガと
1スヴャトスラーフ942-972キエフ大公
?グレーブ-972

第2世代。

 960年代に書かれたと思われる(未完の)『報復の書』の中で、クレモーナ司教リウトプランドは次のように述べている。かれは949年にコンスタンティノープルを訪れており、次の一節はその時の見聞を述べた中にある。

北に近く、ある民族が住んでいる。ギリシャ人はその外見からルシオスと呼んでいるが、われわれはその住居にちなんでノルマン人と呼んでいる。と言うのもゲルマン人の言葉ではノルドは北を、マンは人を意味するからである。ゆえに北の人をノルマン人と呼ぶことができる。この民族の王は Inger という名で、千以上の舟を集めてコンスタンティノープルに現れた。(以下、941年のルーシのコンスタンティノープル襲撃について)

ギリシャ人がルーシをルシオスと呼ぶようになるのはまだ後のことであり、この頃はロス、ロシア、ロシオスと呼んでいた。なお、ルシオス Rousios は rous-(赤い)と音が似ており、リウトプランドはこのことを言っているのだろう。

 リウトプランドがコンスタンティノープルに滞在していた頃に書かれた、皇帝コンスタンティノス・ポルフュロゲネトスの『帝国の統治について』には、次のような一節がある。

内ロシアからコンスタンティノープルへとやってくる舟は、あるいは Νεμογαρδάς/Nemogardas から現れる。ここにはロシアの主 'Ιγγωρ/Ingor の子 Σφενδοσθλαβος/Sphendosthlabos がいる。または Μιλινίσκα/Miliniska 砦から、Τελιου̃τζα/Telioutza から、Τζερνιγω̃γα/Tzernigoga から、または Βουσεγράδε/Bousegrade から現れる。こうしてかれらすべてがドニェプルを通り、Σαμβατάς/Sambatas と呼ばれる Κιόαβα/Kioaba 砦に集結する。

 これらの記述は様々な意味で興味深いが、ここでは先ず、ここに登場する Inger、Ingor に着目しよう。この名は、古ノルド語の Ingvarr、すなわちイーゴリを表していると考えられている。多分に疑わしいケインブリッジ文書の HLGW を別とすれば、最初に外国の史料にその名が記されたルーシの王ということになる。しかも相互に関連のない(どちらかがどちらかを参照したということのない)ふたつの文書がほぼ同じ形で記している以上、イーゴリの実在に疑問はないと言っていいだろう。

 『原初年代記』によるとリューリクの没年が879年であり、その時点でイーゴリはまだ幼年であったとされている以上、イーゴリの生年は870年代と考えられる。イーゴリの没年は945年とされるから、享年は70前後ということになる。当時としては長寿であるものの、不自然な数字ではない。しかし945年の時点で息子のスヴャトスラーフがまだ幼年であったこと、妻のオリガと903年に結婚したとされていることを考えあわせると、生年はもう少し遅かったのではないかとの疑いが湧く。
 ノーヴゴロド第一年代記は、リューリクの跡をイーゴリが継いだかのように記述している。すなわちリューリクが死んだ時点ではすでにイーゴリは成年に達していたかのようである。まして『原初年代記』によれば、オレーグの治世もイーゴリの治世も33年間。オレーグが、コンスタンティノープル遠征で戦った相手である皇帝レオン6世と同年に死んでいれば、イーゴリもまた、コンスタンティノープル遠征で戦った相手である皇帝ロマノス・ラカペノスが廃位された年に死んでいる。オレーグの場合は885年から907年までに22年間、イーゴリの場合は920年から941年までの21年間、それぞれ治世に長きにわたる空白の年月を抱えている。オレーグの治世もイーゴリの治世も、実際よりかなり引き伸ばされているのではないだろうか。

ロマノス・ラカペノスが廃位されたのも、イーゴリが死んだのも、ともに世界創造紀元で6453年。ただしこの年はキリスト紀元では944年から945年にまたがるため、キリスト紀元に直すとロマノス・ラカペノスの廃位は944年、イーゴリの死去は945年とされて1年ズレてしまう。

 イーゴリの係累は父リューリク以外は不明だが、ヨアキーム年代記によれば、母親はウルマン人の公の娘エファンダ。その兄弟がオレーグだとされる。つまりイーゴリにとってオレーグは伯父か叔父だったということになる。さらに、『原初年代記』が記す944年のビザンティン帝国との条約には、イーゴリの甥なる人物がふたり名を見せる。イーゴリとアクンである。つまりイーゴリには、最低でも兄弟か姉妹がひとりはいたことになる。ただしイーゴリ(甥)とアクンとでは、序列に大きな差が見られる。このことからすると、両者は兄弟ではなく従兄弟だったのではないかと想像される。これが正しければ、イーゴリには兄弟なり姉妹なりがふたりいた、ということになろう。

 『原初年代記』によれば、リューリクが死んだ後は、その遺志により、公位もイーゴリもオレーグに託された。ヨアキーム年代記によればオレーグはイーゴリの伯父・叔父なのだから、これは自然な措置であろう。
 ところが、上述のように、ノーヴゴロド第一年代記はリューリクの跡をイーゴリが継いだかのように記している。ここではオレーグは単にイーゴリの軍司令官、すなわち臣下でしかない。

 『原初年代記』によれば、882年にアスコリドディールを騙し討ちしてキエフを征服したのはオレーグであるが、ノーヴゴロド第一年代記によればそれはイーゴリである。オレーグがイーゴリの単なる軍司令官でしかなかったとすれば、それは当然だろう。

 『原初年代記』によれば、イーゴリは903年、オレーグによりオリガと結婚させられた。他方ノーヴゴロド第一年代記によれば、いつとは明記されていないものの、イーゴリは自らオリガを妻に迎えている。なお、ノーヴゴロド第一年代記はその直後に息子スヴャトスラーフの誕生を伝えていて、あたかも結婚後すぐにスヴャトスラーフが生まれたかのように読めるが、『原初年代記』によれば、上述のように、イーゴリの死んだ945年の時点でまだスヴャトスラーフは幼年であった(ラヴレンティイ年代記所収の『原初年代記』はスヴャトスラーフの誕生を書き漏らしているが、イパーティイ年代記所収の『原初年代記』は942年のこととしている)。
 ただし、ではスヴャトスラーフが本当に940年頃の生まれかと言うと、必ずしもそうとは思えない。詳細はスヴャトスラーフの項に譲るが、スヴャトスラーフの子供たちの生年を考えていくと、940年頃に生まれたのはむしろスヴャトスラーフの子供たち、すなわちイーゴリの孫たちだったのではないかと思えてくる。だとすると、イーゴリが903年に結婚したとする説もあながち無視できなくなる。

 『原初年代記』はリューリクの跡をオレーグが継ぎ、オレーグが死んで初めてイーゴリがキエフ公になったとしている。このため、オレーグには屈服していたドレヴリャーネが、その死を契機に離反し、これをイーゴリが攻めて再びキエフ公の権威に服属せしめたエピソードが語られている。
 『原初年代記』は、915年にペチェネーギが初めてルーシの地にやって来たとしている。イーゴリはかれらと協定を結んでドナウに追いやっているが、920年にはペチェネーギと戦っている。
 この辺り、情報が錯綜している。
 ノーヴゴロド第一年代記は、イーゴリが920年にコンスタンティノープルに遠征したとしている。ただしその内容をよく読んでみると、これは941年の話である。しかもノーヴゴロド第一年代記は、922年に今度はオレーグがコンスタンティノープルに遠征したとしている。『原初年代記』によれば、10年前に死んでいるはずのオレーグが、である。これらからすると、ノーヴゴロド第一年代記の記述も信用ならない。
 他方、アル=マスーディによると、912/913年にルーシがバクーを襲撃した。さらにアル=マルワージーによれば、同じく912/913年にルーシはキリスト教に改宗している。どちらの記述も、『原初年代記』やノーヴゴロド第一年代記はおろか、ルーシのいかなる年代記にも記されていない出来事である。
 そもそも『原初年代記』にしてからが、967年にも「ペチェネーギが初めてルーシの地にやって来た」と言っている。915年と967年と、どちらが初めてなのだろうか。

 イーゴリがオレーグの勢力圏をそのまま引き継いだとすると、それはポリャーネ、スロヴェーネ、ドレヴリャーネ、セヴェリャーネ、ラディーミチ、クリヴィチーの一部(ポロチャーネを除くクリヴィチー)、さらにはチューディ、ヴェーシ、メーリャにも及んでいたと考えられる。ポロチャーネは孫のヴラディーミル偉大公が征服するし、ドレゴヴィチーについての記述はないものの、コンスタンティノス・ポルフュロゲネトスによればすでに950年頃までにはキエフの支配下に入っていた。
 『原初年代記』はドレヴリャーネが執拗に叛乱を起こしたかのように書いているが、歴史家の中にはこれをイーゴリの死にまつわる出来事を遡って反映させたものと考える者もある。ゆえにオレーグ死後に離反したというエピソードにも疑問の目を向ける。しかしノーヴゴロド第一年代記も、必要もない場所で「イーゴリはドレヴリャーネとウーリチと戦った」と記しており、やはりドレヴリャーネは誕生したばかりのキエフ・ルーシにあって異質な存在だっただろうと思われる。
 ウーリチについては、ノーヴゴロド第一年代記が特別な記録を残している。それによると、イーゴリの下にいたスヴェンデルドという軍司令官がウーリチを平定したのだと言う。

 941年、コンスタンティノープルに侵攻。これについては、『原初年代記』のみならず、当のビザンティン側にも記録されている。ルーシ側の史料とビザンティン側の史料との記述が、年代や当事者も含めて合致する最初のケースである。遠征の様子は、ルーシ側の史料とビザンティン側の史料とで細部に微妙な違いは見られるものの、ギリシャの火によってルーシが撃退されたという大筋では一致する。

厳密に言うと、ビザンティン側の史料にイーゴリの名は現れない。この遠征の指揮者としてイーゴリの名を挙げたのは、上掲のクレモーナ司教リウトプランドである。

 『原初年代記』によると、943/944年、イーゴリは再びコンスタンティノープル遠征に出発。今度はギリシャの火を怖れたか、黒海を縦断して海路直接コンスタンティノープルを襲うのではなく、バルカン半島を南下して陸路を進んだ。そしてドナウに達したところで、ビザンティン側の申し出を受け入れて講和し、一戦も交えることなく撤退した。しかし考えてみると、これはビザンティン遠征ではなくブルガール遠征ではないだろうか。実際ルーシの進撃にびびったブルガールの要請で皇帝ロマノス・ラカペノスがイーゴリと交渉している(とも読める)。
 ケインブリッジ文書によると、943/944年(?)、皇帝ロマノス・ラカペノスがルーシの王 HLGW を唆してハザールを攻撃させた。HLGW はハザールの都市を蹂躙したものの、反撃を受け、今度は逆にコンスタンティノープルに侵攻する。しかしギリシャの火に敗退し、ペルシャに逃亡してそこで客死した。
 さらにイブン・ミスカワイフによると、943/944年、ルーシがアゼルバイジャンを襲撃。莫大な戦利品を奪って引き上げていったという。
 同年に起こったと見られるこれら3つの出来事は、どのように整理すればいいのだろうか(ケインブリッジ文書とイブン・ミスカワイフについて、詳細はオレーグの項を参照)。

 『原初年代記』によると、6453年(944-945だが、伝統的に944年のこととされている)にイーゴリがビザンティン帝国と結んだ条約では、ルーシ側の代表団が以下のように記述されている。

われら、ルーシ出身の使節と商人である、偉大なるルーシの公イーゴリの使節イヴォル、および一般的な使節たち。すなわちイーゴリの子スヴャトスラーフからヴエファスト、公妃オリガからイスクセヴィ、イーゴリの甥イーゴリからスルードィ、ヴォロディスラーフからウレブ、プレツラーヴァからカニツァル、ウレブの妻スファンドラからシフベルン、プラステン・トゥルドゥヴィ、リビアル・ファストフ、グリム・スフィリコフ、イーゴリの甥アクンからプラステン、カルィ・トゥドコフ、カルシェフ・トゥドロフ、エグリ・エヴリスコフ、ヴォイコフ、イストル・アミノドフ、プラステン・ベルノフ、ヤヴテャグ・グナロフ、シブリド・アルダン、コル・クレコフ、ステッギ・エトノフ、スフィルカ……、アルヴァド・グドフ、フドリ・トゥアドフ、ムトゥル・ウティン。偉大なるルーシの公イーゴリから、およびあらゆる公から、ルーシの地のすべての人々から派遣された商人たち、アドゥニ、アドゥルブ、イッギヴラド、ウレブ、フルタン、ゴモル、クツィ、エミグ、トゥロビド、フロステン、ブルヌィ、ロアルド、グナストル、フラステン、イゲルド、トゥルベルン、モヌィ、ルアルド、スヴェン、スティル、アルダン、ティレン、アプベクサリ、ヴズレフ、シンコ、ボリチ。

 25人の使節と26人の商人、総勢51人の大交渉団である。当時の東スラヴ人にも北ゲルマン人にも姓はなかった。ゆえに、ここで姓のように見えるものは、おそらくロシア語の所有形容詞であろう(ロシア人の姓は所有形容詞から派生したものである)。すなわち、ムトゥル・ウティンはこれひとつで人名ではなく、«ウタのムトゥル» という意味であろう。この場合のウタとは、派遣主であろう。だとすると、25人の使節は次のように一覧化することができる(なお、派遣主の名のほとんどは推測でしかない。またイパーティイ年代記の表記も併記しておいた)。

使節派遣主
1イヴォル Иворイーゴリ
2ヴエファスト Вуефастスヴャトスラーフ (イーゴリの子)
3イスクセヴィ Искусевиオリガ (イーゴリの妻)
4スルードィ Слудыイーゴリ (イーゴリの甥)
5ウレブ Улебヴォロディスラーフ Володислав
6カニツァル Каницарプレツラーヴァ Предслава
7シフベルン Шихберн/Шигобернスファンドラ Сфандра (ウレブの妻)
8プラステン Прастенトゥルドゥヴィ Турдуви
9リビアル Либиар/Либиファスト Фаст/Арфаст
10グリム Гримスフィルコ Сфирько
11プラステン Прастенアクン Акун/Якун (イーゴリの甥)
12カルィ Карыトゥドコ Тудко
13カルシェフ Каршевトゥドル Тудор
14エグリ Егриエヴリスク Евлиск/Ерлиск
15(イパーティイ年代記ではヴォイスト Воист)ヴォイコ Войко
16イストル Истрアミノド Аминод/Яминд
17プラステン Прастенベルン Берн
18ヤヴテャグ Явтяг/Ятвягグナル Гунар
19シブリド Шибридアルダン Алдан
20コル Колクレク Клек
21ステッギ Стеггиエトン Етон
22スフィルコ Сфирка
23アルヴァド Алвадグード Гуд
24フドリ Фудриトゥアド Туад/Тулб
25ムトゥル Мутурウタ Ута

 これらの名の語源を究明していくとおもしろいだろうが、ここでは次の点に着目しておきたい。
 第一は、使節の名も、派遣主の名も、必ずしも北ゲルマン系ばかりでなく、ヴォイコのようなスラヴ系くさい名も見られるし、さらには北ゲルマン系ともスラヴ系とも思えない名も少なくない、という点である。26人の商人の名も含めて考えると、当時のルーシは北ゲルマン系(ヴァリャーギ)やスラヴ系(先住民)だけでなく、さらに、あるいはテュルク系やイラン系などもまじった多民族国家だったのではないかと思える。
 特異なのが18番目に挙げられているヤトヴャーグである(イパーティイ年代記。ラヴレンティイ年代記ではヤヴテャグ)。ロシア語でヤトヴャーギ ятвяги(ヤトヴャーグの複数形)とは、リトアニア人、プロイセン人、ポーランド人に囲まれ、ポーロツクのクリヴィチー(ポロチャーネ)に隣接するバルト系民族のことである。
 第二に、ヴォロディスラーフとプレツラーヴァという名である。このふたつの名は、スヴャトスラーフと同様、間違いなくスラヴ系である。しかも東スラヴ系である。『原初年代記』に登場する最初のスラヴ人の名が、ここのスヴャトスラーフ、ヴォロディスラーフ、プレツラーヴァである。ゆえに当時の東スラヴ人の名にはほかにどのようなものがあったのか、いかなる手がかりもない。のちの話になるが、ヴラディーミル偉大公の叔父はドブルィニャ、聖ボリース暗殺犯はプトシャ、タレツ、エロヴィト、リャシュコ、ヨアキーム年代記によればリューリクに叛乱を起こした人物はヴァディーム。ヴォロディスラーフやプレツラーヴァは、これらとは異質な名である。リューリコヴィチでスラヴ系の名が使われるのはこの後であるから時代錯誤ではあるが、あえて言えばリューリコヴィチくさい名である。
 特にプレツラーヴァは、女性であるにもかかわらず使節を派遣しており、これは公妃オリガ、ウレブの妻と並ぶ特殊な扱いである。
 第三に、イーゴリの複数の親族が使節を派遣している点である。妻オリガ、そして当時まだ幼年だったと思われるスヴャトスラーフが派遣した使節は、おそらく事実上イーゴリその人の利益を代弁することになったろう。つまり甥たちは別としても、イーゴリひとりで3倍の発言権を持っていたわけである。当然これにふたりの甥が加われば、その発言力はより大きくなったはずだ。
 第四に、イーゴリの一族として挙げられているふたりの甥に、顕著な格差がある点である。甥イーゴリは、同名である点からも、オリガのすぐ次に位置している点からも、イーゴリの一族として高い地位にあったのだろう。これに対してアクンはどこの誰ともわからぬ者たちにまじってようやく11番目に顔を出す。イーゴリの甥は甥でも姉妹の子でもあったのだろうか。
 そうなると改めてヴォロディスラーフとプレツラーヴァが気になる。甥イーゴリのすぐ次、もうひとりの甥アクンよりもはるかに上に、明確にスラヴ系の名が並んでいるのである(しかもリューリコヴィチ臭い)。こうなると、このふたりもイーゴリの親族だったのではないかと考えたくなる。
 第五は、公妃たるオリガはいいとしよう。リューリコヴィチ臭い名のプレツラーヴァも、もしイーゴリの親族だったとすれば独自の使節を派遣していても不思議はない。しかし «ウレブの妻» であるスファンドラは、女性でありながら、なぜここに顔を出しているのだろうか。このウレブが、5番目に挙げられている使節なのか、それとも商人として4人目に挙げられている人物なのか、それともまた別人なのかは不明である。ただ使節を派遣する側である以上、おそらく別人だろう。そして本人が使節を派遣していないのだから、すでに故人だったのだろう。いずれにせよ、ウレブなる人物はそれなりの重要人物だったのではないかと思われる。
 第六に、派遣主の中には、911年の条約でオレーグに派遣された使節と同じ名の持ち主が見られる(ファスト?とグード)。これについてはふたつの側面がある。ひとつは、両者間に共通点があまり見られないこと。33年の時が流れているのだから同一人物が両方にかかわっている方が珍しいとは言えるだろうが(ゆえにファスト?とグードにしても同一人物かどうかはわからない)、それよりも、911年の条約に見られた人名に比べてゲルマン色が薄まっているように思えることの方が興味深い。そしてもうひとつ、ファスト?とグードがもし同一人物だとしたら、911年の条約では派遣されていたふたりが、今度は派遣する側にまわっている点である。あくまで同一人物であったらという仮定の話ではあるが、話が逆ではないだろうか。
 第七に、これと関連して、この構成自体がおかしい。911年の条約交渉ではオレーグひとりが15人の使節を派遣しているが、944年にはイーゴリ以外の24人が独自の使節を派遣していることになる。親族の分を含めても(ヴォロディスラーフやプレツラーヴァが親族だったとしても)、イーゴリの関係者が派遣したのは24人中7人でしかない。明らかにキエフ公の中央権力は弱体化している。
 この最後の点は重要で、911年の条約にせよ、この944年の条約にせよ、果たして本物か否かが問われる(ただし偽物だとしても、名前の考察には意味がある)。

 945年、イーゴリは死んだ。その状況を述べる『原初年代記』とノーヴゴロド第一年代記の記述は、ほぼ一字一句同じである。ところが重要な相違点があり、それがスヴェネリドなる人物の扱いである。
 『原初年代記』6453年(944-945)の項は、いきなり次のように始まっている(なお、『原初年代記』には6453年の項がふたつある。ひとつが条約、もうひとつがイーゴリの死を扱っている。なぜ同一の年の出来事をふたつの項目に分けたのか、これも興味深い点である)。

6453年(944-945)。この年、従士団がイーゴリに言った。「スヴェネリドの家臣が武器と衣服で着飾っているというのに、我々は裸だ。公よ、我らと貢納を徴収しに行こう。自分でも、また我らも稼ごうではないか」。これをイーゴリは聞き入れた。ドレヴリャーネのもとに貢納を求めて赴き、以前の貢納に新たな貢納を付け加え、イーゴリの従者たちがかれらに強要した。貢納を得ると、自身の都市へと向かった。戻る途中、考え、従士団に言った。「貢納を持って家に戻れ。わたしは戻ってさらに歩き回る」。従士団を家へと帰すと、自身は大きな富を夢見ながらわずかな従士団とともに戻った。ドレヴリャーネは、また来たと聞いて自分たちの公マールと協議した。「もしオオカミがヒツジに悪さをするなら、群れをすべて連れ出してオオカミを殺すだろう。これも同じだ。かれを殺さなければ我らはみな破滅するだろう」。そしてかれに使者を送って言った。「なぜまた来るのか。すでに貢納はすべて取っていったはずだ」。しかしイーゴリはこれを聞き入れなかった。ドレヴリャーネは都市イスコロステニを出て、イーゴリと従士団を小数だったので殺してしまった。イーゴリは葬られ、その墓はドレヴリャーネの地のイスコロステニ近郊にいまもある。

イスコロステニは、現コーロステニ(ウクライナ共和国ジトーミル州)。キエフからは150km。

これでは『原初年代記』の読者は「スヴェネリドって誰?」である。ところがノーヴゴロド第一年代記では、スヴェネリド Свенельд はすでにスヴェンデルド Свенделд という名で登場している(両者が同一人物であるとして)。最初は6430年(921-922)の項の後で、かれがウーリチを征服したことが述べられている。かれが特殊なのは、6430年にはウーリチとドレヴリャーネからの貢納が、6448年(939-940)には再びウーリチからの貢納が、6450年(941-942)には再びドレヴリャーネからの貢納が、かれに与えられている点である。
 スヴェネリドはおそらくイーゴリの片腕とも言うべきキエフ・ルーシの最重要人物だったのだろう。『原初年代記』ではイーゴリの死後の遺児スヴャトスラーフの軍司令官としてスヴェネリドが特筆されている。
 それにしても一部族から徴収された貢納をまるまる一個人に与えるなどというのは何か特殊な事情があったのではないかと思われる。しかも、944年の条約では派遣主に名を連ねていない。果たしてスヴェネリドとは一体どのような人物だったのだろうか。
 だいたいなぜイーゴリの従士団は、いきなりスヴェネリドに対して嫉妬してみせたのか。そしてなぜそれがドレヴリャーネからの貢納徴収に結びつくのか(ほかの部族から、あるいは全部族からの徴収でも良かったはずだ)。
 そもそも、上記引用部分は、素直に読むとイーゴリとスヴェネリドを対等に比較しているように読める。あるいは、ノーヴゴロドの公であったリューリクが遺児イーゴリをヴァリャーギの公オレーグに委ねたように、キエフの公イーゴリも遺児スヴャトスラーフを別のヴァリャーギの公スヴェネリドに委ねた、ということではないだろうか。つまり当時、キエフ・ルーシのほかに、どこか別にルーシが存在し、その支配者がスヴェネリドだったのではないだろうか。だとすれば、イーゴリの従士団がスヴェネリドの家臣に嫉妬した事実も理解できる。スヴェネリドがウーリチを征服し、ドレヴリャーネから貢納を徴収したというのは、つまり両者がキエフの支配下にあったのではなくスヴェネリドの支配する別のヴァリャーギの支配下にあったことを意味しているのではないだろうか。
 ギリシャ人のレオン・オ・ディアコノス(輔祭レオン)はその『歴史』(992年?)で、皇帝イオアンネス・ツィミスケスの次のような言葉を伝えている。

「汝(スヴャトスラーフ)は汝の父インゴル 'Ιγγωρ/Ingor の敗北について忘れておらぬであろう。誓った条約を何とも思わず、我らが首都に1万艘の大軍とともに来たかと思えば、キンメリアのボスポロスにわずか10艘で戻り、自身が己の不幸の使者となった。その哀れな運命については言及すまい。ゲルマン人への遠征に赴き、捕虜となり、木の幹にくくりつけられてふたつに引き裂かれた。」

キンメリアのボスポロスとは、ケルチ海峡のこと。そもそもこの地理関係がおかしい。イーゴリの本拠地キエフはドニェプル流域であるが、ケルチ海峡はドン河口に通じている。

 前半は941年のコンスタンティノープル遠征に言及しているわけだが、遠征の前にどんな条約を結んでいたのだろうか(911年の条約のことを言っているのだろうか)。しかこここで問題とすべきは後半である。イーゴリはゲルマン人に遠征し、捕虜となって殺されたということになっている。一般的にはレオン・オ・ディアコノスがゲルマン人 Γερμανοι/Germanoi とドレヴリャーネ(コンスタンティノス・ポルフュロゲネトスは Βερβιανοι/Berbianoi と書いている)とを取り違えたとされている。それにしても、貢納の徴収と遠征とでは大きな違いだ。これもまた、ドレヴリャーネがそもそもキエフの支配下にはなかったとすれば納得が行く。
 では、「スヴェネリドの支配する別のヴァリャーギ」とは一体どのような存在だったのか。これこそ、オレーグの項で言及した «第二のルーシ»、即ち «アルサ・ルーシ» ではないだろうか。
 これはスヴェネリドの素性とかイーゴリの死の状況にとどまらず、当時のルーシの実態という問題とからんで話が大きくなりすぎるので、ここではこれ以上深入りしない。

 改めて、冒頭で引用したコンスタンティノス・ポルフュロゲネトスを見てみる。

内ロシアからコンスタンティノープルへとやってくる舟は、あるいはネモガルダスから現れる。ここにはロシアの主インゴルの子スフェンドストラボスがいる。またはミリニスカ砦から、テリウツァから、ツェルニゴガから、またはブセグラデから現れる。こうしてかれらすべてがドニェプルを通り、サムバタスと呼ばれるキオアバ砦に集結する。

 問題としたいのは、あたかもこの時点で(950年頃)イーゴリがまだ存命中だったかに思える点である。もしイーゴリがすでに死んでいたのなら、「ロシアの主スフェンドストラボス」と書けばいい。「ロシアの主インゴルの子スフェンドストラボス」などともってまわった言い回しをしているのは、イーゴリがまだ存命中だったからではないだろうか。上述した『原初年代記』の編年にかかわる疑問からすると、イーゴリの没年が945年ではなく950年頃より後であった可能性も否定はできないだろう(とはいえその根拠はこの記述のみであるからあまりに貧弱であるが)。

 ヨアキーム年代記は、スヴャトスラーフに弟がいたことを伝えている。

かれ(スヴャトスラーフ)は激怒し、たったひとりの弟であるグレーブをも容赦せず、さまざまな苦しみを味わわせて殺した。

 ヨアキーム年代記の信憑性には疑問があるものの、もしこの情報が正しいとしたら、その母親は誰なのだろう。グレーブはキリスト教徒であったそうなので、オリガの息子だったというのは大いにあり得る。とすると、スヴャトスラーフとは同腹の兄弟ということになる。
 ここで気になるのが、グレーブという名そのものである。この名は、古ノルド語で Guðleifr と再建され得る。つまりこの名は、リューリク、オレーグ、イーゴリと同じく古ノルド語であり、スヴャトスラーフのようなスラヴ語ではない。この名は、『原初年代記』にせよノーヴゴロド第一年代記にせよ、この時点までには登場していない(最初に登場するのはスヴャトスラーフ)。もしヨアキーム年代記がタティーシチェフのでっち上げだったとすると、タティーシチェフはグレーブという名の語源を知っていたということになろう。それよりは、ヨアキーム年代記が、もしその全体でなくとも少なくともスヴャトスラーフに弟がいたというこの情報が、正しかったと考えた方が蓋然性が高い気がする。
 もうひとつ、グレーブ Глеб、すなわちグズレイフ Guðleifr は、ウレーブ Улеб とも転訛し得る。944年のビザンティンとの条約に、ウレーブという名の使節と商人が登場するし、ウレーブの妻スファンドラも使節を派遣している。このためタティーシチェフは、スファンドラの夫をイーゴリの息子だと考えた。

ここでイーゴリの母の名がエファンダとされているが、後に息子ウレーブの嫁が同じ名を名乗っているのは、あるいは、イーゴリが母への愛情からそのように名付けたのかもしれない。

妻の名がスファンドラとエファンダでは微妙に異なるが、このふたりが同一人物だという可能性もないではない。しかしもしタティーシチェフの考えが正しいとすれば、944年の時点で弟のグレーブはすでに妻を迎えており、他方で兄のスヴャトスラーフはまだ幼児だったということになる。兄弟の長幼の順が逆だったとすれば、なぜ弟が同腹の兄に代わって父の跡を継いだのか説明がつかない。何より、944年の条約にグレーブ自身が使節を派遣していないのは解せない。この条約における派遣主と使節との関係を考えてみると、おそらく主君と家臣の関係にあると考えていいだろう。つまり、スファンドラの夫は使節のウレーブではない。にもかかわらずウレーブが使節を派遣していないということは、つまりこの時点でスファンドラは未亡人となっていたということではないだろうか。すでに亡き夫ウレーブの(あるいはさらにまだ幼いその遺児の)代理としてスファンドラが使節を派遣したというところであろう。
 結論として、個人的には、イーゴリの次男グレーブ自身は実在したろうが、スファンドラの夫ウレーブとは別人だったのではないかと考える。

 添え名の «スタールィー» は「古い」。人について使われる場合には、「年老いた・老齢の」という意味。

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最終更新日 06 09 2013

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