ロシア学事始ロシアの君主リューリク家人名録系図人名一覧

リューリク家人名録

エリザヴェータ・ヤロスラーヴナ

Елизавета Ярославна, Ellisiv av Kiev

公女 княжна
ノルウェー王妃 konunga av Norge

生:1025?
没:1067?

父:キエフ大公ヤロスラーフ賢公 (キエフ大公ヴラディーミル偉大公
母:インゲゲルド (スウェーデン王オロフ課税王)

結婚:1043・44
  & ノルウェー王ハーラル3世苛烈王 1015-66

子:

生没年
ハーラル苛烈王と
1マリア-1066
2インゲゲルド-1120?デンマーク王オーラフ1世空腹王
スウェーデン王フィリップ

第6世代。ヤロスラーフ賢公の二女(?)。

 夫ハーラルは、ノルウェー王オーラフ2世の異父弟。1027年、オーラフ2世はデンマーク王クヌード3世に敗北し(ちなみにこれによりクヌード大王は、デンマーク、ノルウェー、イングランドの3ヶ国の王となった)、ハーラルはキエフに逃亡。しかし、ヴァリャーギの伝統に則って、さらに南下してコンスタンティノープルに至り、そこでヴァリャーギ親衛隊の司令官として活躍した。
 1046年、ノルウェー王となっていた、オーラフ2世の遺児マグヌス1世に招かれてハーラルは帰国。おそらくこの直前、キエフでハーラルはエリザヴェータと結婚したものと思われる。

 単にハーラルが好色だったのか、それとも異教時代の風習が抜けなかったのか、ハーラルはエリザヴェータ以外に «妻» を持ち、のちにノルウェー王位はこの «2号» の産んだ子が継いでいる。

 1066年、イングランド王エドワード懺悔王が死去。すぐさまウェセックス伯ハロルドが王位を継ぐが、これに反発する勢力は少なくなかった。そのひとりが実兄ノーザンブリア伯トスティーグで、その支援を得たハーラルは、イングランドに侵攻。しかしヨーク近郊のスタンフォード橋の戦いで敗北し、ハーラルは戦死した。
 ちなみにこの隙を衝いてサセックスに上陸したのがノルマンディ公ギヨームで、ヘイスティングスの戦いでハロルドを破り(ハロルドは戦死)、イングランド王ウィリアム征服王となった。もしハーラルがイングランドに侵攻していなければ、あるいはその時期が少しずれていれば、ノルマン征服はなかったかもしれない。

 エリザヴェータは娘たちとともにイングランドに赴いており、年代記の伝えるところによると、父の死んだまさにその日、まさにその時間に、長女マリアも死んだという。
 エリザヴェータは次女インゲゲルドを連れてノルウェーに帰還。その後の消息は不明である。

 なお、彼女の名は、ルーシの年代記には記されておらず、ノルウェー語の Ellisiv から推測したものである。そもそもエリザヴェータという女性名はルーシではおそらく «タタールのくびき» の時代(1241-1480)になってようやく使われるようになった(少なくともモンゴルの襲来以前には年代記等に «エリザヴェータ» という名は登場しない)。このため、彼女の名は実際にはエリザヴェータではなかったのではないかとも考えられる。

▲ページのトップにもどる▲

最終更新日 07 03 2013

Copyright © Подгорный (Podgornyy). Все права защищены с 7 11 2008 г.

inserted by FC2 system