ロシア学事始ロシアの君主リューリク家人名録系図人名一覧

リューリク家人名録

ボリース・ヴャチェスラーヴィチ

Борис Вячеславич

チェルニーゴフ公 князь Черниговский(1077-78)

生:?
没:1078.10.03−ネジャーティナ・ニーヴァ(チェルニーゴフ近郊)

父:スモレンスク公ヴャチェスラーフ・ヤロスラーヴィチ (キエフ大公ヤロスラーフ賢公
母:オダ (シュターデ伯レーオポルト)?

結婚:?

子:?

第7世代。

 1077年を以て、ロシアの年代記に突然登場。何処からかやってきて、大量の資金でポーロヴェツ人を雇ったという。伯父フセーヴォロド・ヤロスラーヴィチの不在を衝いてチェルニーゴフを支配するが、8日後には従兄弟のトムタラカーニ公ロマーン・スヴャトスラーヴィチのもとに逃亡する。

 北ドイツはエルベ河口のシュターデのアルベルトの年代記によると、シュターデ伯レーオポルトの娘オダは、リンテルン修道院に入っていたが、その後還俗し、ルーシの公と結婚。ヴァルテスラフという子を設けた。夫の死後、ザクセンに戻って再婚。この時、ヴァルテスラフと金をルーシから持ってきた。その後ヴァルテスラフはルーシに戻り、父の後を継いだ。
 以上の話がキエフ・ルーシのことであるとするならば、ヴァルテスラフに最もよく合致するのがボリースである、とカラムジーンは考えた。とすると、1057年の父の死後、ボリースはザクセンにいた、ということになる。20歳になったのを機に、母から資金をもらってルーシに戻ってきたということだろう。ところが父の治めていたスモレンスクは、伯父フセーヴォロド・ヤロスラーヴィチの領土となっていた、というわけだ。

 もっとも、近年はオダの夫はチェルニーゴフ公スヴャトスラーフ・ヤロスラーヴィチであったとする説が有力になっているようだ。となれば、ボリース・ヴャチェスラーヴィチが1077年までどこで何をしていたのか、やはり不明ということになる。
 いずれにせよ、1057年に父が死んだ時点でまだ幼児であったボリース・ヴャチェスラーヴィチは、分領も与えられず、やはり母方に養われていたのだろう。

 1078年、従兄弟のノーヴゴロド公グレーブ・スヴャトスラーヴィチの死に伴い、ノーヴゴロドを伯父のキエフ大公イズャスラーフ・ヤロスラーヴィチが取り上げると、グレーブの弟オレーグ・スヴャトスラーヴィチはトムタラカーニに逃亡。
 ここでロマーン & オレーグのスヴャトスラーヴィチ兄弟とボリース・ヴャチェスラーヴィチの3者が合流した。
 ポーロヴェツ人の支援を得た3人は、先ず、ボリース・ヴャチェスラーヴィチを追い出したフセーヴォロド・ヤロスラーヴィチを破る。キエフに侵攻するが、イズャスラーフ & フセーヴォロト連合軍に敗れ、ボリース・ヴャチェスラーヴィチは戦死した。

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最終更新日 07 03 2013

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