ロシア学事始ロシアの君主リューリク家人名録系図人名一覧

リューリク家人名録

聖ボリース・ヴラディーミロヴィチ

Св. Борис Владимирович

ロストーフ公 князь Ростовский (1010-15)

生:?
没:1015.07.24

父:キエフ大公ヴラディーミル偉大公 (キエフ公スヴャトスラーフ・イーゴレヴィチ
母:ミロリカ?(ブルガール人)

結婚:?

子:?

第5世代。洗礼名ロマーン。

 グレーブとペアで扱われ、兄弟の母親は、『原初年代記』によればブルガール人、ヨアキーム年代記によればビザンティン皇女アンナとされている。
 ボリースという語源不詳の名前が文献上最初に使われたのがブルガリアであったことを勘案すると、『原初年代記』の説の方が蓋然性が高そうに思われる(ちなみにほかの兄弟たちの名は、北ゲルマン起源のグレーブを除いてすべてスラヴ語)。が、そもそも «ブルガール人» というのがドナウ・ブルガール(ブルガリア)なのかヴォルガ・ブルガールなのかは判然としない。

 『ボリースとグレーブの物語』によると、最初父によりヴォルィニを与えられた。しかしフセーヴォロドにヴラディーミル=ヴォルィンスキイが与えられているので、さらにそれに加えてボリースにもヴォルィニに領土が与えられたとも考えにくい。一般的に、988年頃に行われた最初の分割に際してはボリースは領土を与えられなかったと考えられている。
 最年長のヴィシェスラーフですら10歳になるかならぬかであったことを考えると、ボリースに領土が与えられなかった理由が幼年とは考えづらい。あるいはそもそも生まれていなかったのかもしれない。だとすると、ボリースの母はこの頃父と結婚したビザンティン皇女アンナであったのだろう。ただしペアで扱われているグレーブは、この時に領土を与えられたとも言われる。

 1010年、兄ヤロスラーフ賢公が長兄ヴィシェスラーフの死でロストーフからノーヴゴロドに鞍替えになると、父によりロストーフの支配を委ねられる。
 ただし父によりキエフにとどめ置かれて現地には赴かず、ムーロム公グレーブがロストーフもあわせて統治したらしい。父の寵愛を受けていたとも言われ、あるいはキエフにとどめ置かれたのも、いずれはキエフそのものをボリースに譲ろうという父の思惑があったからかもしれない。

 1015年、父の命によりペチェネーグ人への遠征に出発。その帰途、父の死とヴィーシュゴロド公スヴャトポルク・オカヤンヌィイの権力掌握の報せを受ける。
 キエフ市民の一部から内密に公位を提供されるが、肉親間の血で血を洗う権力闘争を嫌い、拒絶した。しかしかれの人気を怖れたスヴャトポルク・オカヤンヌィイにより暗殺される。
 ただし、近年かれの死因については異論も出ている。スヴャトポルク・オカヤンヌィイは教会関係者から嫌われていたが、年代記を書いたのも修道士、即ち教会関係者であり、その辺りのバイアスが働いていると考えられる。おそらく、正確なところは不明、というのが妥当なところではないだろうか。
 後年、ヤロスラーフ賢公により、ヴィーシュゴロドにグレーブとともに合葬された。

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最終更新日 07 03 2013

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