コンスタンティーン・フセヴォローディチ «ムードルィイ»
Константин Всеволодич "Мудрый"
ノーヴゴロド公 князь Новгородский (1205-07)
ロストーフ公 князь Ростовский (1207-18)
ヴラディーミル大公 великий князь Владимирский (1216-18)
生:1186.05.18
没:1218.02.02(享年31)
父:ヴラディーミル大公フセーヴォロド大巣公 (ロストーフ=スーズダリ公ユーリイ・ドルゴルーキイ)
母:マリーヤ・シュヴァルノヴナ
結婚:1196
& アガーフィヤ公女 -1220 (スモレンスク公ムスティスラーフ・ロマーノヴィチ老公)
子:
名 | 生没年 | ||
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アガーフィヤ・ムスティスラーヴナと | |||
1 | ヴァシリコ | 1209-37 | ロストーフ |
2 | フセーヴォロド | 1210-37 | ヤロスラーヴリ |
3 | ヴラディーミル | 1214-49 | ウーグリチ |
第10世代。モノマーシチ(ヴラディーミル系)。フセーヴォロド大巣公の長男。
ロストーフ系モノマーシチの始祖。
1190年代の一時期、ペレヤスラーヴリ(=ユージュヌィイ)公だったとする文献があるが、当時は従兄弟のヤロスラーフ赤公がペレヤスラーヴリ公だったはず。
1205年、父によりノーヴゴロドに派遣される。
1207年、ロストーフ、ヤロスラーヴリ、ウーグリチを分領として与えられる。ちなみにこれらはヴラディーミル=スーズダリ公領でも北部に位置する。
1212年、父フセーヴォロド大巣公が死去。
死の直前、父はコンスタンティーン・フセヴォローディチにヴラディーミルを、次弟ユーリイ・フセヴォローディチにロストーフを譲ることを遺言した。ところがこれに対してコンスタンティーン・フセヴォローディチは、ヴラディーミルもロストーフもくれ、とダダをこねる。
怒った父は、ボヤーリンたちや主教イヴァンなどとも協議して、年長権をユーリー・フセヴォローディチに与えることを決めた。
こうして父の死後、コンスタンティーン・フセヴォローディチは旧来の分領の保持だけが認められ、ヴラディーミル大公位はユーリイ・フセヴォローディチが継承した。
もちろん、そもそも年長であり、長年旧都ロストーフを支配してきたコンスタンティーン・フセヴォローディチが、簡単に年長権を諦めるはずがない。ユーリイ・フセヴォローディチは平和的解決を目指して、コンスタンティーン・フセヴォローディチがヴラディーミル大公となる代わりにユーリイ・フセヴォローディチがロストーフを継ぐという提案をしたらしい。しかしこれは父がもともと考えていた案であり、コンスタンティーン・フセヴォローディチが拒否したものである。コンスタンティーン・フセヴォローディチとしては、自分がヴラディーミル大公となり、ロストーフを自分の子孫の «ヴォーッチナ(父祖伝来の地)» として息子に譲り、ユーリイ・フセヴォローディチにはスーズダリを与えるという考えを持っていたそうだ。
コンスタンティーン・フセヴォローディチとユーリイ・フセヴォローディチとの対立には、弟たちも巻き込まれ、ヤロスラーフはユーリイ側に、ヴラディーミルとスヴャトスラーフがコンスタンティーン側についた。
両派は2度までも衝突するが、決着はつかなかった。
1216年、ノーヴゴロドを巡ってヤロスラーフ・フセヴォローディチと争い、ヴラディーミル大公領に侵攻してきたムスティスラーフ幸運公が、コンスタンティーン・フセヴォローディチに同盟を提案。コンスタンティーン・フセヴォローディチはペレヤスラーヴリ=ザレスキイでムスティスラーフ幸運公と合流した。
これに対して、これまでコンスタンティーン・フセヴォローディチを支持してきたヴラディーミルとスヴャトスラーフ、そして末弟のイヴァンまでもがユーリイ側につき、コンスタンティーン・フセヴォローディチはすべての弟を敵にまわすことになった。
さらにユーリイ側にはムーロム公ダヴィド・ユーリエヴィチが加わった。一方コンスタンティーン側にはスモレンスク公ヴラディーミル・リューリコヴィチとプスコーフ公ヴラディーミル・ムスティスラーヴィチ(ムスティスラーフ幸運公の従兄弟と弟)が来援。コンスタンティーンとユーリイの、年長権を巡る個人的な争いは、いまやノーヴゴロドの支配権を巡るスモレンスク系諸公とヴラディーミル系諸公との対立も絡んで、北ルーシにおける覇権を賭けた戦いとなった。
両軍はユーリエフ=ポリスキイ(ヴラディーミル大公領)近郊のリピツ河畔で激突。ムスティスラーフ幸運公の率いるノーヴゴロド・プスコーフ・スモレンスク連合軍が、ユーリイ & ヤロスラーフの率いるヴラディーミル・ムーロム連合軍を圧倒した。
ムスティスラーフ幸運公はノーヴゴロドを確保し、ヴラディーミル系諸公にも大きな影響力を維持して、しばしの間スモレンスク系諸公が北ルーシの覇権を握ることになった。
コンスタンティーン・フセヴォローディチはユーリイ・フセヴォローディチと和解し、ヴラディーミル大公位を獲得した一方、ユーリイ・フセヴォローディチに分領としてゴロデーツを与えた。ほかの弟たちの分領は安堵した。
しかしコンスタンティーン・フセヴォローディチは、あるいはもともと身体が弱かったのか、この年のうちに病の床に就いたらしい。死期を悟ったか、自分の死後、まだ幼少の息子たちの将来を確保するためだろう、1217年、ユーリイ・フセヴォローディチを呼び出し、スーズダリを与え、さらに自身の後継者に任命した。他方でロストーフは子供たちに分与した。
なお、コンスタンティーン・フセヴォローディチの晩年については、息子たちへの分与が1218年、死去が1219年とする文献も多い。
添え名の «ムードルィイ» は「賢い」という意味だが、コンスタンティーン・フセヴォローディチはほかに «ドーブルィイ»(善良な)という添え名で呼ばれることもあるらしい。
いずれも、かれがロストーフの支配者としておこなった文化・芸術活動に関連したものらしい。コンスタンティーン・フセヴォローディチはロストーフに幾多の教会を建立、あるいは美化し、さらには図書館も建設した。かれ自身、複数の言語を話したと言われる。父や弟たちとの関係は必ずしも円満ではなかったようにも思えるが、貴族や市民には慕われ、敬われていた。