コンスタンティーン・イヴァーノヴィチ
Константин Иванович
公 князь
生:?
没:?
父:イヴァン・フョードロヴィチ公 (ベロオーゼロ公フョードル・ロマーノヴィチ)
母:?
結婚:?
子:?
第17世代。モノマーシチ(ロストーフ系)。
生年は不明。父の生年が1350年とされることがあるが、だとするとコンスタンティーン・イヴァーノヴィチは1370年代の生まれか。
1380年、クリコーヴォの戦いで祖父と父とが戦死。おそらく叔父もおらず、コンスタンティーン・イヴァーノヴィチは孤児となった。
あるいはまだ幼かったためか、ベロオーゼロ公領は父の従兄弟にあたるユーリイ・ヴァシーリエヴィチが相続する。しかしユーリイ・ヴァシーリエヴィチは1389年までにベロオーゼロをモスクワ大公ドミートリイ・ドンスコーイに売却してしまった。
自前の分領も持たず、«ヴォーッチナ(父祖伝来の地)» であるベロオーゼロもモスクワ大公領となって、コンスタンティーン・イヴァーノヴィチにはモスクワ大公に仕える勤務公となる道しか残されていなかったが、あるいはそれを嫌ったのか、コンスタンティーン・イヴァーノヴィチは1393年、ノーヴゴロドへ。
1393年にノーヴゴロドがモスクワ大公ヴァシーリイ1世と戦った際には、コンスタンティーン・イヴァーノヴィチはノーヴゴロド軍の1司令官として活躍している。
1394年にはプスコーフ遠征に従軍。1395年にはスウェーデン軍を撃退。1396年にはドイツ人と戦っている。
1408年、プスコーフへ。何があったのか、ノーヴゴロドへの勤務をやめてプスコーフに鞍替えしたわけだが、その年のうちにはいずこかへと去っていった。
その後の消息は不明。