ロシア学事始ロシアの君主リューリク家

ロストーフ系

ヴラディーミル系モノマーシチの一系統。フセーヴォロド大巣公(9)の子コンスタンティーン賢公(10)に始まる。
 ヴラディーミル大公領の北部を領有。
 コンスタンティーン賢公(10)自身はヴラディーミル大公だったが、その子らは早くもヴラディーミル大公位争奪戦から脱落している。これはたまたまモンゴルの襲来と重なり、ヴァシリコフセーヴォロドの兄弟(11)が戦死したため、「ヴラディーミル大公になれるのはヴラディーミル大公の子」という不文律から、大公位を主張する権利を喪失したことも大きい。
 しかしもうひとつ、早くから複数の分領に分割されたことも挙げられるだろう。本流のほかに、大きくヤロスラーヴリ、ウーグリチ、ベロオーゼロの系統が出ている。ヤロスラーヴリとウーグリチの系統はのちに断絶するが、ヤロスラーヴリ公領はスモレンスク系分家に相続されて失われた。
 領土がヴラディーミル大公領の北部だったために、あるいは経済的な発展が遅れたこともあったかもしれない。面積的には広くても、領内の都市は数えるほどしか存在せず、そのため14世紀には都市ロストーフそれ自体が二分された。
 こうして弱体化したロストーフ公領は、南方で徐々に勢力を拡大しつつあったモスクワ公の格好の餌食となり、その領土は侵食されていく。すでに1330年代にはモスクワ公の代官がロストーフに派遣されていたとも言われ、ドミートリイ・ドンスコーイ(15)が出るに及んでロストーフ系諸公は完全にその下風に立たされた。以後、ロストーフ系諸公は事実上モスクワ大公の勤務公と化し、ベロオーゼロ公領とウーグリチ公領はモスクワ大公領に併合された。15世紀には、ロストーフ公自身、あるいはロストーフに住んでいないのではないかとも思われる。少なくともロストーフの統治は完全にモスクワ大公の代官に委ねられていた。
 最終的には1474年にロストーフの権利がモスクワ大公に売却され、ロストーフ系一族の分領は消滅した。
 しかし分領を失くしても、ロストーフ系一族は数多くの分家に分かれ、モスクワ大公・ツァーリの臣下として存続した。

 家系図はこちらの画像

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最終更新日 07 03 2013

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