グレーブ・ヴァシリコヴィチ
Глеб Васильевич
ベロオーゼロ公 князь Белозерский (1238-78)
ロストーフ公 князь Ростовский (1277-78)
生:1237
没:1278.12.13−ロストーフ
父:ロストーフ公ヴァシリコ・コンスタンティーノヴィチ (ロストーフ公コンスタンティーン賢公)
母:マリーヤ (チェルニーゴフ公ミハイール・フセヴォローディチ)
結婚:1257
& フェオドーラ -1273 (サルタク)
子:
名 | 生没年 | ||
---|---|---|---|
母親不詳 | |||
1 | デミヤーン | ||
2 | ミハイール | 1263- | ベロオーゼロ |
? | ヴァシーリイ | ||
? | ロマーン |
第12世代。モノマーシチ(ロストーフ系)。ヴァシリコ・コンスタンティーノヴィチの次男。
父が死んだ時点(1238年)ではまだ幼年(1236年誕生説もある)。父の遺領は兄ボリースとグレーブとで分割され、グレーブ・ヴァシリコヴィチはベロオーゼロを分領としてもらった。
しかしヴァシリコヴィチ兄弟はまだ幼く、ロストーフ公領は一括して母やボヤーリンによって統治されていた。グレーブ・ヴァシリコヴィチが実際にベロオーゼロに赴いたのは1251年になってからのこと。
1244年、兄とともに叔父ヴラディーミル・コンスタンティーノヴィチにともなわれてサライに伺候。バトゥにベロオーゼロ領有を認可してもらった。
1249年、サライに赴き、バトゥの息子で実権を握っていたサルタクと会見。
帰途、ヴラディーミルで客死した従兄弟ヴァシーリイ・フセヴォローディチの遺体に付き添いヤロスラーヴリへ(兄も)。
上述のように、1251年になって初めてベロオーゼロへ。しかし年代記の記述を見る限りでは、ベロオーゼロとロストーフを行ったり来たりしたか、あるいはそもそも相変わらずロストーフに住み続けたか、いずれにせよベロオーゼロに完全に住み着いたわけではなさそうだ。
1257年、ボリース・ヴァシリコヴィチとともにサライへ。サルタクの娘(バトゥの孫娘)と結婚した。新妻を連れて戻ったのはベロオーゼロではなくロストーフであった。
1268年にもサライに伺候。1271年にサライに伺候した際には、かれの不在中に母が死んでいる。
1273年に妻が死んだが、埋葬されたのはロストーフ。
1277年、サライへ。メング=ティムールに従い、北カフカーズ(ダゲスターン)遠征。
ちょうどこの時、兄ボリース・ヴァシリコヴィチも遠征に従軍するためサライに赴いてきていたが、病死していた。グレーブ・ヴァシリコヴィチはメング=ティムールからロストーフ公位の相続を認められ、帰国。
帰国後、息子を結婚させ、さらにブルガール遠征のためサライに派遣する。その直後に死去した。ロストーフの妻と兄の傍らに葬られた。
ベロオーゼロ公領にスパソ=カーメンヌィー修道院やウスティシェホンスキイ=トロイツキイ修道院などを建てた。また、クーベナ湖から流れ出すスーホナ川が著しく屈曲していることから、直線で結ぶ «運河» を建設した。