ロシア学事始ロシアの君主リューリク家人名録系図人名一覧

リューリク家人名録

ドミートリイ・ボリーソヴィチ

Дмитрий Борисович

ロストーフ公 князь Ростовский (1278-86、89-94)
ウーグリチ公 князь Углицкий (1286-88)

生:1253.09.11−ロストーフ
没:1294−ロストーフ

父:ロストーフ公ボリース・ヴァシリコヴィチロストーフ公ヴァシリコ・コンスタンティーノヴィチ
母:マリーヤ (ムーロム公ヤロスラーフ・ユーリエヴィチ

結婚:1276
  & ?

子:

生没年
母親不詳
1ヴァシリーサヴラディーミル大公アンドレイ
2ペレヤスラーヴリ公イヴァン
3アンナ-1368トヴェーリ公ミハイール
4アレクサンドル1286-

第13世代。モノマーシチ(ロストーフ系)。ボリース・ヴァシリコヴィチの長男。

 1276年、結婚。ただし年代記に結婚の事実は記されているが、相手が誰かは不明。

 1277年、メング=ティムールの命令で、カフカーズ遠征に従軍するため、父や弟コンスタンティーン・ボリーソヴィチとともにサライへ。しかし父はサライにて病死。ドミートリイ・ボリーソヴィチは父の遺骸とともにロストーフに帰国。弟と叔父のベロオーゼロ公グレーブ・ヴァシリコヴィチは、そのままカフカーズ遠征に従軍した。
 ロストーフ公位はメング=ティムールによりグレーブ・ヴァシリコヴィチに与えられていたが、グレーブ・ヴァシリコヴィチは1278年の帰国直後に死去。ロストーフはボリーソヴィチ兄弟が共同で統治することになった。

 1279年、従兄弟のベロオーゼロ公ミハイール・グレーボヴィチからベロオーゼロを奪う。
 さらに1281年には、ロストーフから弟コンスタンティーン・ボリーソヴィチを追う。理由は不明。何らかの諍いがあったのか、それとも単にドミートリイ・ボリーソヴィチが独占欲旺盛だったのか。
 ロストーフ主教イグナーティイがヴラディーミル大公ドミートリイ・アレクサンドロヴィチに取り成しを依頼したため、その仲裁によりその年のうちにボリーソヴィチ兄弟は和解した。
 まさにこの1281年、ドミートリイ・アレクサンドロヴィチも弟アンドレイ・アレクサンドロヴィチからヴラディーミル大公位を奪われることになる。他の北東ルーシ諸公と同じく、ボリーソヴィチ兄弟もアンドレイ・アレクサンドロヴィチを支援してドミートリイ・アレクサンドロヴィチと戦った(逆にドミートリイ・ボリーソヴィチはドミートリイ・アレクサンドロヴィチ側に立ち、このためロストーフを焼き打ちされたとする史書もある)。

 1285年、ウーグリチ公ロマーン・ヴラディーミロヴィチが子なくして死去。ウーグリチはロストーフ本領に併合された。こうして、スモレンスク系が相続していたヤロスラーヴリを除き、曾祖父コンスタンティーン賢公の領有していた領土がすべてボリーソヴィチ兄弟の手中に収まった。

 1286/87年、ロストーフ公領を分割。ドミートリイ・ボリーソヴィチがウーグリチを、コンスタンティーン・ボリーソヴィチがロストーフを獲得した。なおこの年、ベロオーゼロをミハイール・グレーボヴィチに返還している。
 1289年、分領を交換。
 もっともこれは、そんな平和裏の話ではなく、1286年に弟にロストーフから追われたドミートリイ・ボリーソヴィチがウーグリチに逃げ、3年後に逆襲してロストーフを奪還。コンスタンティーン・ボリーソヴィチをウーグリチに追った、とする史書もある。
 ドミートリイ・ボリーソヴィチは基本的に反タタール政策を採っていたが、このため1286年にトゥダ=メングがコンスタンティーン・ボリーソヴィチにロストーフを与え、ドミートリイ・ボリーソヴィチをウーグリチに追った、とする史書もある。
 1289年にロストーフを追われたコンスタンティーン・ボリーソヴィチはサライに赴いてハーンに兄の所業を訴えたが、当時権力闘争が持ち上がっていたため埒があかなかった、ともされる。
 もっとも、それにしてはその後の兄弟仲は悪くないように思われる。

 1288年、ヴラディーミル大公ドミートリイ・アレクサンドロヴィチのトヴェーリ遠征に従軍。

 1289年、ロストーフ市民がモンゴルに対して蜂起した際には(民会が役人を追放した)、コンスタンティーン・ボリーソヴィチがサライに赴いて、ドミートリイ・ボリーソヴィチの代理人としてトゥラ=ブガに弁解にこれ努めた。

 1292年、コンスタンティーン・ボリーソヴィチ、さらには息子アレクサンドルも引き連れてサライへ。これはドミートリイ・アレクサンドロヴィチに反対する北東諸公の共同行動で、アンドレイ・アレクサンドロヴィチを中心にしてドミートリイ・アレクサンドロヴィチについての苦情をトフタ・ハーンに申し立てた。
 1293年、トフタ・ハーンの派遣したタタール軍に、アンドレイ・アレクサンドロヴィチコンスタンティーン・ボリーソヴィチとともに従軍し、ドミートリイ・アレクサンドロヴィチをヴラディーミルから追った。

▲ページのトップにもどる▲

最終更新日 07 03 2013

Copyright © Подгорный (Podgornyy). Все права защищены с 7 11 2008 г.

inserted by FC2 system