ロシア学事始ロシアの君主リューリク家人名録系図人名一覧

リューリク家人名録

ボリース・ヴァシリコヴィチ

Борис Васильевич

ロストーフ公 князь Ростовский (1238-77)

生:1231.06.24−ロストーフ
没:1277.09.16 (享年46)−サライ

父:ロストーフ公ヴァシリコ・コンスタンティーノヴィチロストーフ公コンスタンティーン賢公
母:マリーヤ (チェルニーゴフ公ミハイール・フセヴォローディチ

結婚:1248
  & マリーヤ公女 (ムーロム公ヤロスラーフ・ユーリエヴィチ

子:

生没年
母親不詳
1ドミートリイ1253-94ロストーフ
2コンスタンティーン1255-1307ウーグリチ
ヴァシーリイ

第12世代。モノマーシチ(ロストーフ系)。ヴァシリコ・コンスタンティーノヴィチの長男。

 1238年、父がシーティ河畔の戦いでモンゴル軍に敗北し、ロストーフ軍は壊滅。父も戦後殺された。後に残されたボリースとグレーブのヴァシリコヴィチ兄弟は、一応父の遺領を分割したが(ボリースがロストーフ、グレーブがベロオーゼロ)、現実にはふたりともまだ幼年であったため、ロストーフで幼少期を送った。分領の実権は母やボヤーリンたちが握った。

 1244年、叔父のヤロスラーヴリ公ヴラディーミル・コンスタンティーノヴィチに伴われてサライに赴き、バトゥから父の遺領の相続を認められた。
 当時はモンゴルによるルーシ支配が始まったばかりで、ルーシ諸公がサライのハーンから公領相続の認可状をもらうというのは、あるいはこれが最初だったかもしれない(従兄弟のヴァシーリイ・フセヴォローディチが1239年に早くも伺候していたらしいが)。この時点でまだローティーンだったボリース・ヴァシリコヴィチ自身の考えとも思われないので、まだ幼い息子にバトゥの認可状という権威を持たせようとした母親かボヤーリンたちの、あるいは叔父の考えだったのだろう。

 1245年にも、母方の祖父ミハイール・フセヴォローディチに従いサライに伺候。ハーンの権威に服するよう祖父を説得したが、結局ミハイール・フセヴォローディチはサライで処刑される。

 1250年、みたびサライに伺候。サルタク(バトゥの長男)に迎えられる。さらに1256年、1257年から58年と、相次いでサライ詣でを繰り返している。
 こうしたサライ詣でについての記述はあるが(それでもその目的や成果など、必ずしもはっきりしない)、分領の統治についての記述はほとんどない(アレクサンドル・ネフスキイをロストーフに迎えた、とかばかり)。

 1255/57年、従兄弟のヤロスラーヴリ公コンスタンティーン・フセヴォローディチが子なくして死去。それまでのキエフ・ルーシの慣例に従えばボリース・ヴァシーリエヴィチなりほかの一族なりがヤロスラーヴリを併合してしかるべきだが、なぜかこの時は、その姪マリーヤ・ヴァシーリエヴナ(しかもおそらくまだ幼女)が継いだようだ。と言うのも、1261年に彼女と結婚したスモレンスク系のモジャイスク公フョードル黒公がヤロスラーヴリを継いでいるからである。マリーヤ・ヴァシーリエヴナの母親である公妃クセーニヤがかなりのやり手だったらしく、権力を握り続けたい彼女にボリース・ヴァシーリエヴィチもあるいは押し切られたということなのかもしれない。

 1277年、メング=ティムールの命令でカフカーズ遠征に従軍するため、妻子を連れてサライへ。弟グレーブのほかに、ゴロデーツ公アンドレイ・アレクサンドロヴィチヤロスラーヴリ公フョードル黒公なども招集されている。
 しかしサライ到着の直後、病気になり、死んだ。遺骸は妻子によりロストーフに運ばれ、ウスペンスカヤ教会に埋葬された。

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最終更新日 07 03 2013

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