聖アンナ・ドミートリエヴナ・カーシンスカヤ
Анна Дмитрьевна Кашинская
ロストーフ公女 княжна Ростовская
トヴェーリ公妃 княгиня Тверская
ヴラディーミル大公妃 великая княгиня Владимирская
生:?
没:1368.10.02−カーシン
父:ロストーフ公ドミートリイ・ボリーソヴィチ (ロストーフ公ボリース・ヴァシリコヴィチ)
母:?
結婚:1294
& トヴェーリ公ミハイール・ヤロスラーヴィチ 1271-1318
子:
名 | 生没年 | ||
---|---|---|---|
ミハイール・ヤロスラーヴィチと | |||
1 | ドミートリイ | 1299-1326 | トヴェーリ |
2 | アレクサンドル | 1301-39 | トヴェーリ |
3 | コンスタンティーン | 1306-46 | ドロゴブージュ |
4 | ヴァシーリイ | 1304-68 | カーシン |
5 | フェオドーラ |
第14世代。モノマーシチ(ロストーフ系)。
父親の結婚が1276年のこととされており、アンナ・ドミートリエヴナの生年は1280年頃と想定されている。
1294年、ミハイール・ヤロスラーヴィチと結婚。夫はおそらく10歳ほど年長で、すでにトヴェーリ公であった。
1318年、夫がハーンの妹を毒殺した咎でサライに呼び出され、処刑される。
1326年、サライに赴いていた長男ドミートリイ雷眼公が、ハーンの面前でモスクワ公ユーリイ・ダニイーロヴィチを殺し、ハーンに処刑される。
1339年、次男アレクサンドル・ミハイロヴィチが孫フョードルとともにサライで処刑される。
夫とふたりの息子を処刑したのは、いずれもウズベク・ハーンだった。
1346年には三男コンスタンティーン・ミハイロヴィチもまたサライで客死した(ただし処刑されたわけではないし、時のハーンもウズベクではない)。
アンナ・ドミートリエヴナについてわかっていることは少ない。少なくとも夫が生きていた頃のことは不明だし、夫の死後も特に年代記に記録されているわけでもない。そのため、いつ頃修道女となったのかも不明。
三男の死後、それまで順調に年長順に継承されてきたトヴェーリ公位を巡り、末男ヴァシーリイ・ミハイロヴィチと孫フセーヴォロド・アレクサンドロヴィチが争いを繰り広げる。一旦は和解したものの、1357年には争いが再燃していた。
あるいはそれがひとつのきっかけとなってアンナ・ドミートリエヴナを修道女とならせたのかもしれない。いずれにせよ、翌1358年の時点で修道女ソフィヤとして言及されている。もっとも、その後も修道院に土地を寄進したりといった記事が散見されるだけで、アンナ・ドミートリエヴナについてはよくわかっていない。
1367年、ヴァシーリイ・ミハイロヴィチがミハイール・アレクサンドロヴィチに敗北すると、アンナ・ドミートリエヴナは息子とともにカーシンへ。「アンナ・カーシンスカヤ」と呼ばれているものの、カーシンに住んだのは最晩年のほんの1年ほどでしかない。
ロシア正教会における «聖者認定» がどうなっているのかよくわからないが、アンナ・ドミートリエヴナもいつの間にか聖者として敬愛を集めていたようだ(もっとも正式に聖者と «認定» されたのは1650年頃らしい)。
1677年、アンナ・ドミートリエヴナのものとされた聖遺物、年代記、聖者伝を調査した結果、正教会はアンナ・ドミートリエヴナを聖者として認めない決定を下した。正教会の歴史で唯一(?)聖者の «認定» を公式に取り消された聖者となった。
とはいえ、その後もトヴェーリ主教管区ではアンナ・ドミートリエヴナを聖者として敬い続けた。その結果、最終的には1909年になってニコライ2世(正教会の長でもある)の承認を得て宗務院によりアンナ・ドミートリエヴナは再び聖者として «認定» された。
ちなみに、夫も聖者に列せられている。