フセスラーフ・ブリャチスラーヴィチ
Всеслав Брячиславич
ポーロツク公 князь Полоцкий (1044-68、71-1101)
キエフ大公 великий князь Киевский (1068-69)
生:1029?
没:1101.04.14
父:ポーロツク公ブリャチスラーフ・イジャスラーヴィチ (ポーロツク公イジャスラーフ・ヴラディーミロヴィチ)
母:?
結婚:?
子:
名 | 生没年 | ||
---|---|---|---|
母親不詳 | |||
1 | ロマーン | -1116 | |
2 | グレーブ | -1119 | ミンスク |
3 | ボリース | -1127 | ドルツク |
4 | ダヴィド | ポーロツク | |
5 | ローグヴォロド | -1128 | ポーロツク |
6 | スヴャトスラーフ | ヴィテブスク | |
7 | ロスティスラーフ |
第7世代。ポーロツク系。
記録に残る限りでは、おそらくリューリコヴィチの最長寿記録(70+α)、最長在位記録(57)の保持者。ポーロツク系から唯一キエフ大公となった人物。さらに、民間伝説では魔術師 чародей にして «オーボロテニ оборотень»(動物に変身する人)として有名(ブィリーナの英雄ヴォルフ・フセスラーヴィチと関係があるという説もある)。
1044年、父が死去。その唯一の息子(記録上は)であったフセスラーフ・ブリャチスラーヴィチがポーロツク公位を継いだ。
1054年、ヤロスラーフ賢公が死去。ルーシはその3人の遺児により分割されるが、ポーロツクは別格と見なされていたのか、ヤロスラーヴィチ3兄弟の領土に組み込まれることもなければ、逆にフセスラーフ・ブリャチスラーヴィチがルーシ分割に加えられることもなかった。
おそらくこの頃はまだフセスラーフ・ブリャチスラーヴィチもヤロスラーフ賢公やその子たちと比較的友好的な関係にあったようで、テュルク系民族への遠征にも従軍している。
1065年にプスコーフ侵攻。これに失敗しても懲りずに、1067年にはノーヴゴロド侵攻。ノーヴゴロド公ムスティスラーフ・イジャスラーヴィチを破り、ノーヴゴロドを占領した。
バルト海と黒海とを結ぶ «ヴァリャーギからギリシャへの道» において、ポーロツクはリガ湾に抜ける西ドヴィナー河畔に位置しており、フィンランド湾に抜けるラードガ湖畔のノーヴゴロド、チューディ湖畔のプスコーフとはその経済的・戦略的位置を争う関係にあった。このため、12世紀初頭にポーロツクが没落するまで、ポーロツクは両者と執拗に(軍事的手段も含めて)争っていた。フセスラーフ・ブリャチスラーヴィチの軍事行動も、この一環と捉えることができよう。
これに対してヤロスラーヴィチ兄弟連合軍は、ミンスクを占領。フセスラーフ・ブリャチスラーヴィチもこれを迎え撃つが、敗北を喫した。
ポーロツクに逃げ帰ったフセスラーフ・ブリャチスラーヴィチは、3兄弟からスモレンスクに来るよう呼び出されると、かれらの言葉を信じて赴く。しかし誓約を違えたイジャスラーフ・ヤロスラーヴィチに捕らえられ、キエフに監禁された。
1068年、アリタ河畔の戦いでヤロスラーヴィチ3兄弟はポーロヴェツ人に敗北。これを受けてキエフでは、イジャスラーフ・ヤロスラーヴィチが不人気だったこともあり、市民が蜂起。フセスラーフ・ブリャチスラーヴィチは市民によって解放され、公に推された。イジャスラーフ・ヤロスラーヴィチは逃亡。フセスラーフ・ブリャチスラーヴィチがキエフ大公となった。
もちろん、キエフ大公と言っても現実にはキエフを支配しただけで、ヤロスラーヴィチ兄弟に対する宗主権など行使できてはいない。
1069年、イジャスラーフ・ヤロスラーヴィチとポーランド王ボレスワフ2世の連合軍がキエフに侵攻。キエフ軍は迎撃に赴いたが、フセスラーフ・ブリャチスラーヴィチはそれを見棄ててポーロツクに逃亡した。
さらにポーロツクからも、キエフ大公位を奪回したイジャスラーフ・ヤロスラーヴィチにより追われる。フセスラーフ・ブリャチスラーヴィチは北方ヴォルジャーネ人のもとに逃亡した。
その後ヴォルジャーネ軍を率いてノーヴゴロトに侵攻。しかしノーヴゴロド公グレーブ・スヴャトスラーヴィチに撃退され、フセスラーフ・ブリャチスラーヴィチも捕らえられるが、釈放された。
1071年、再度ルーシに侵攻し、ポーロツクを奪回。しかしスヴャトポルク・イジャスラーヴィチ(イズャスラーフの子)に敗れ、再び亡命した。
1072年、最終的にポーロツクを奪回。
1073年、ヤロスラーヴィチ3兄弟の結束が崩れ、イジャスラーフ・ヤロスラーヴィチが弟たちにキエフを追われた。
この原因について年代記は、スヴャトスラーフ・ヤロスラーヴィチがフセーヴォロド・ヤロスラーヴィチにこう言って唆したのだと言っている。「イジャスラーフ・ヤロスラーヴィチはフセスラーフ・ブリャチスラーヴィチと語らってオレたちに害をなそうとしている。先んじなければ追われるだけだ」。
この発言そのものの真偽はともかく、内容の真偽は重要である。つまり、本当にイジャスラーフ・ヤロスラーヴィチがフセスラーフ・ブリャチスラーヴィチと語らっていたのだとすれば、あるいは1072年にフセスラーフ・ブリャチスラーヴィチがポーロツクを奪回できたのも、イジャスラーフ・ヤロスラーヴィチの暗黙の了解があったからかもしれない。
もっとも、イジャスラーフ・ヤロスラーヴィチはポーランドに亡命。支援を断られるとドイツに赴き、ローマ教皇にも泣きついているが、フセスラーフ・ブリャチスラーヴィチに支援を要請したという話はない。フセスラーフ・ブリャチスラーヴィチ自身、積極的にキエフ情勢に介入しようとはせず、両者の連携という話もどうやらスヴャトスラーフ・ヤロスラーヴィチの邪推(あるいは単なる口実)でしかなかったようだ。
1077年、キエフ大公に返り咲いたイジャスラーフ・ヤロスラーヴィチは、早速フセーヴォロド・ヤロスラーヴィチをポーロツクに派遣。1078年、ヴラディーミル・モノマーフ(フセーヴォロドの子)がポーロツクを焼き討ち。しかしいずれの攻撃にも耐え、フセスラーフ・ブリャチスラーヴィチはポ−ロツクを死守した。
1078年、イジャスラーフ・ヤロスラーヴィチが死去。フセスラーフ・ブリャチスラーヴィチはスモレンスクに遠征し、これを焼き討ち。さらにチェルニーゴフにまで侵攻するが、フセーヴォロド・ヤロスラーヴィチに敗北した(スモレンスクもチェルニーゴフもフセーヴォロド・ヤロスラーヴィチの領土)。
報復として、フセーヴォロド・ヤロスラーヴィチが息子ヴラディーミル・モノマーフ、甥スヴャトポルク・イジャスラーヴィチとともにポーロツクに侵攻。ドルツク、ロゴジュスク、さらにはポーロツクも焼き打ちされた。
1084年、ヴラディーミル・モノマーフが、ポーロツク公領であったミンスクを武力で占領し、他の公に割譲。フセスラーフ・ブリャチスラーヴィチはこれを阻止することができず、それまで別格だったポーロツクは、以後、その他大勢の公領と同格になる。
以後の消息は不明。
なお、ポーロツク系で系図がはっきりしているのはここまで。これ以降は混乱が激しく、多くが推測の域を出ない。
フセスラーフ・ブリャチスラーヴィチの子は7人いたとされてきたが、こんにちでは6人しか挙げられない。多くの学者が、ボリースとローグヴォロドは同一人物の異名(前者はキリスト教徒としての洗礼名、後者は伝統的なスラヴ名)と考えているようだが、当コンテンツが基本的に依拠している Рыжов Константин. Монархи России. М., 2006 は、両者をともに挙げてロスティスラーフを落としている。