ヴォロダーリ・グレーボヴィチ
Володарь Глебович
ミンスク公 князь Минский (1151-59、65-67、67-)
ゴロデーツ公 князь Городцовский (1159-65)
ポーロツク公 князь Полоцкий (1167)
生:?
没:1167
父:ミンスク公グレーブ・フセスラーヴィチ (ポーロツク公フセスラーフ・ブリャチスラーヴィチ)
母:アナスタシーヤ (ヴラディーミル=ヴォルィンスキイ公ヤロポルク・イジャスラーヴィチ)
結婚:1135?
& リクサ 1116-55 (ポーランド王ボレスワフ3世曲唇王)
(スウェーデン王マグヌス未亡人)
子:
名 | 生没年 | ||
---|---|---|---|
リクサ・ボレスワヴォヴナと | |||
? | ソフィヤ | 1141-98 | デンマーク王ヴァルデマール1世大王 |
テューリンゲン方伯ルートヴィヒ3世 | |||
母親不詳 | |||
1 | グレーブ | ||
2 | ヴラディーミル | ミンスク | |
3 | ヴァシリコ | ロゴシュスク |
第9世代。ポーロツク系(ミンスク系)。
兄ロスティスラーフ・グレーボヴィチ同様、ヴォロダーリ・グレーボヴィチもその前半生についてはよくわかっていない。そもそもロスティスラーフ、ヴォロダーリ、フセーヴォロド、イジャスラーフと4人いたとされる兄弟の、誰が兄で誰が弟かも明確ではない。とはいえ、諸々の状況証拠からおそらくこの順番だったのではないかと想像される。
生年は不明だが、両親の結婚が1090年とされているので、おそらくは1090年代初頭か半ばのことだろう。
1119年に父が死んだ後は、おそらくロスティスラーフ・グレーボヴィチがミンスクを継いだのではないかと想像されるが、あるいはヴォロダーリ・グレーボヴィチもどこかに分領をもらったのかもしれない。
ポーロツク系諸公は1129年にキエフ大公ムスティスラーフ偉大公によってコンスタンティノープルに追放されたが、おそらくこの時ヴォロダーリ・グレーボヴィチもその数に入っていたものと思われる。ルーシへの帰還がいつかは不明だが、兄が1146年にミンスク公となっているので、おそらくヴォロダーリ・グレーボヴィチもその前後には帰国していたのだろう。
問題は、妻とされるリクサ・ボレスワヴォヴナとの関係である。
リクサは最初の夫を1134年に失い、父のもとに戻った。その後1135年頃に2度目の結婚をしたとされる。さらに1148年には3度目の結婚をし、スウェーデンへ。娘のソフィヤはふたり目の夫との間に設けた子だが、母とともに暮らしており、1148年にはスウェーデンに渡っている。
ふたり目の夫は、ポーランドの文献では «Valador» と呼ばれていて、これがヴォロダーリ・グレーボヴィチのこととされている。そのためソフィヤもスウェーデンでは一般的に «ミンスクの af Minsk» と呼ばれる。
しかし当時ヴォロダーリ・グレーボヴィチは追放状態にあったか、帰国していたとしても特段の分領は有していなかった。確かにのちにミンスクを継ぎ、一時はポーロツクも支配しているが、それは結婚をしたとされる1135年頃から20年も先の話である。政治的にはほとんど意味のない結婚と言わざるを得ない。
このため学者の中には、当時ヴォロダーリ・グレーボヴィチはポーランド宮廷に滞在していたのではないかと考える者もあるようだ。確かにそれならばヴォロダーリ・グレーボヴィチがポーランド王の目に留まる可能性は出てくるが、政略的に価値がないことに変わりはない。
もしリクサのふたり目の夫がヴォロダーリ・グレーボヴィチであったとしても、兄がミンスク公となった1146年頃には離婚したものと思われる(この頃リクサは娘を連れてポーランドに戻っている)。ヴォロダーリ・グレーボヴィチにとっては、依然としてポーランドとの関係が重要な時期であったはずだが。
1151年、ロスティスラーフ・グレーボヴィチがポーロツク公となり、ヴォロダーリ・グレーボヴィチはその後を襲ってミンスク公となる。
当時ポーロツク系はミンスク系、ドルツク系、ヴィテブスク系に分かれて、ポーロツク公位を激しく争っていた。グレーボヴィチ兄弟の最初のライバルとなったのは、ドルツク公ローグヴォロド・ボリーソヴィチであった。
1159年、兄とともにローグヴォロド・ボリーソヴィチと戦うが、結局ローグヴォロド・ボリーソヴィチが兄を追ってポーロツクを奪う。ヴォロダーリ・グレーボヴィチは兄をミンスクに迎え入れ、自らは近郊のグロドノ(ゴロデーツ?)を領有する。
1161年、ローグヴォロド・ボリーソヴィチがグロドノ(ゴロデーツ?)を攻撃。ヴォロダーリ・グレーボヴィチはリトアニア人を率いてこれを夜襲。ローグヴォロド・ボリーソヴィチはポーロツクへの帰還を断念した。
しかし、ポーロツク公となったのはロスティスラーフ・グレーボヴィチでもヴォロダーリ・グレーボヴィチでもなく、ヴィテプスク公フセスラーフ・ヴァシリコヴィチが漁夫の利を得る形でポーロツクに迎えられた。
1165年、兄が死去。その子もすでに亡く、ヴォロダーリ・グレーボヴィチがミンスク公位を継いだ。
1167年、ヴォロダーリ・グレーボヴィチはポーロツクに侵攻。フセスラーフ・ヴァシリコヴィチをヴィテブスクに追い、ポーロツクを占領した。
ヴィテプスク公ダヴィド・ロスティスラーヴィチ(フセスラーフ・ヴァシリコヴィチがポーロツク公となった後、ヴィテブスク公にはその妻の叔父ダヴィド・ロスティスラーヴィチが就任していた)はフセスラーフ・ヴァシリコヴィチを迎え入れ、ヴォロダーリ・グレーボヴィチと対立。ヴォロダーリ・グレーボヴィチはヴィテブスクに侵攻したが、スモレンスク公ロマーン・ロスティスラーヴィチ(ダヴィドの兄)の来援を怖れ、撤退。フセスラーフ・ヴァシリコヴィチがポーロツクに帰還し、ヴォロダーリ・グレーボヴィチはミンスクに戻った。
その没年ははっきりしないが、一般的にはこの直後に死んだと考えられている。