ヴァシリコ・スヴャトスラーヴィチ
Василько Святославич
ヴィテブスク公 князь Витебский
ポーロツク公 князь Полоцкий (1132-44)
生:?
没:1144?
父:ヴィテブスク公スヴャトスラーフ・フセスラーヴィチ (ポーロツク公フセスラーフ・ブリャチスラーヴィチ)
母:?
結婚:?
子:
名 | 生没年 | ||
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母親不詳 | |||
1 | フセスラーフ | ヴィテブスク | |
2 | オリガ | ||
3 | ブリャチスラーフ | -1186 | イジャスラーヴリ |
? | ヴォロダーリ | ||
4 | イジャスラーフ | ||
5 | マリーヤ | チェルニーゴフ公スヴャトスラーフ | |
6 | フセーヴォロド | グロドノ |
第9世代。ポーロツク系(ヴィテプスク系)。
1129年、キエフ大公ムスティスラーフ偉大公により、伯父ポーロツク公ダヴィド・フセスラーヴィチや父等一族とともにコンスタンティノープルに派遣される(実質は追放)。
1132年、再び年代記に登場。この時点でヴィテブスク公であったヴァシリコ・スヴャトスラーヴィチは、ムスティスラーフ偉大公の死に乗じてその子スヴャトポルク・ムスティスラーヴィチを追放したポーロツク市民に乞われてポーロツク公に。
1143年、娘マリーヤをスヴャトスラーフ・フセヴォローディチに与えた(ただしマリーヤの父親は別人だとする説もあるらしい)。
ヴァシリコ・スヴャトスラーヴィチについて知られているのは以上である。しかもコンスタンティノープルへの追放も必ずしも確実な情報ではない。イジャスラーヴリ公であったヴァシリコ・スヴャトスラーヴィチはお目こぼしに与ったとする説もある。だからこそ1132年という早い時期に復活することができたのかもしれない。
おそらく娘を嫁がせた翌年に死んだものと考えられている。