ロシア学事始ロシアの君主リューリク家人名録系図人名一覧

リューリク家人名録

コンスタンティーン «ベズルーキイ»

Константин "Безрукий"

ヴィテブスク公 князь Витебский
ポーロツク公 князь Полоцкий

生:?
没:?

父:?
母:?

結婚:?

子:

生没年
母親不詳
?ミハイール

ポーロツク系? 出自不明。

 13世紀の西・北西ルーシにおいてコンスタンティーンという名の公が年代記において複数回言及されている。かれ、およびかれと思われる人物の活動を列挙してみると、以下のようになる。

 1263年、リヴォニア騎士団・リガ司教と、ポーロツク公領・ヴィテブスク公領とが協定を結んでいる。これは、すでにコンスタンティーンによってなされた領土割譲を確認し、安全保障、通商、裁判などについて両者の協調を謳っている。このことからして、コンスタンティーンは少なくともポーロツク公、おそらくはヴィテブスク公でもあったのではないかと推測される。ただしこの協定にはコンスタンティーン自身は署名していないことから、1263年の時点ではすでにポーロツク公(およびヴィテブスク公)ではなくなっていたのだろう。とすると、1255年頃から1263年までリトアニア人のタウトヴィラス(ロシア語でトフティヴィル)がポーロツク公であったので、コンスタンティーンは1255年以前のポーロツク公だったということになる。
 この «ポーロツク公コンスタンティーン» と、ユーリエフ攻略に従軍したコンスタンティーンとが同一人物であるならば、何らかの理由でポーロツク公位を退いたコンスタンティーンは、その後ノーヴゴロドに軍事司令官として雇われていたのではないかと考えられる。
 さらに、この両者のリヴォニア騎士団、ノーヴゴロド双方との緊密な関係を考えると、1292年に登場するコンスタンティーンもまた同一人物と考えていいのではないだろうか。この時ヴラディーミル大公位を追われたドミートリイ・アレクサンドロヴィチは、ノーヴゴロドの分領プスコーフに逃亡してきて、ノーヴゴロド自体もかれと弟との争いに巻き込まれている。

 これらがすべて同一人物に帰するかどうかを確定することは不可能だが、これらからこのコンスタンティーンなる人物の素性について、以下のような説が出されている。

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最終更新日 07 03 2013

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