グレーブ・フセスラーヴィチ
Глеб Всеславич
ミンスク公 князь Минский (1101-19)
ポーロツク公 князь Полоцкий (1116-19)
生:?
没:1119.09.13−キエフ
父:ポーロツク公フセスラーフ・ブリャチスラーヴィチ (ポーロツク公ブリャチスラーフ・イジャスラーヴィチ)
母:?
結婚:1090
& アナスタシーヤ公女 -1159 (ヴラディーミル=ヴォルィンスキイ公ヤロポルク・イジャスラーヴィチ)
子:
名 | 生没年 | ||
---|---|---|---|
アナスタシーヤ・ヤロポールコヴナと | |||
1 | ロスティスラーフ | -1165 | ミンスク |
2 | ヴォロダーリ | -1167 | ミンスク |
3 | フセーヴォロド | -1158 | イジャスラーヴリ |
4 | イジャスラーフ | -1134 |
第8世代。ポーロツク系。
ミンスク系の始祖。
フセスラーヴィチ7兄弟の長幼の順ははっきりしないが、1104年にグレーブ・フセスラーヴィチがミンスク公であったことは確かで、ゆえにかれが長男でなかったことはまず間違いないだろう。おそらく父の死で、ミンスクを分領としてもらったものと思われる。
1104年、キエフ大公スヴャトポルク・イジャスラーヴィチ、オレーグ・スヴャトスラーヴィチ、ヤロポルク・ヴラディーミロヴィチの連合軍がミンスクを攻囲。グレーブ・フセスラーヴィチはこれを撃退する。
1106年、フセスラーヴィチ兄弟はセミガリア(現ラトヴィア中部)に遠征している。しかし大敗を喫した。
1116年、グレーブ・フセスラーヴィチはヴラディーミル・モノマーフとの戦争を開始。キエフ大公に所属するプリーピャティとドヴィナー間の領土を攻略し、スルーツクを焼き打ちした。
これに対してヴラディーミル・モノマーフは、従兄弟ダヴィド・スヴャトスラーヴィチ、その弟オレーグの子供たちとともにミンスクに侵攻。その領土であるオールシャ、ドルツクを占領し、ミンスクにグレーブ・フセスラーヴィチを攻囲。
グレーブ・フセスラーヴィチは屈服し、ヴラディーミル・モノマーフはグレーブ・フセスラーヴィチを赦し、ミンスクを返還してキエフに帰還した(ただしオールシャはスモレンスク公領となった)。
1119年、グレーブ・フセスラーヴィチは再びヴラディーミル・モノマーフに反抗し、スモレンスクに侵攻。しかしミンスクに侵攻したムスティスラーフ偉大公に敗北し、その捕虜となる。
グレープ・フセスラーヴィチはキエフに連行され、そこで死を迎えた。
フセスラーヴィチ兄弟については不明な点が多いが、父の死後1127年までのポーロツク公が誰であったかもそのひとつ。1127年、ダヴィド・フセスラーヴィチがポーロツク公位を追われているが、かれが1101年からポーロツク公であったのか、それともそうではなかったのか。
そうではなかったとする説のひとつに、少なくとも一時期はグレーブ・フセスラーヴィチがポーロツク公だった、とするものがある。Рыжов Константин. Монархи России. М., 2006 はこの立場で、かれによればまずロマーンが父の跡を継ぎ、1116年にグレーブがロマーンの跡を継いだ、ということになる。だとするとグレーブ・フセスラーヴィチは、ポーロツク公となった後もミンスクに住み続けていたのか。
しかしロマーン・フセスラーヴィチは1116年にムーロム(リャザニ?)で客死しており、どうやら公位を追放されたのではないかと想像される。とすると、グレーブ・フセスラーヴィチがポーロツク公位を奪ったということだろうか。ヴラディーミル・モノマーフとの戦争も、あるいはその関連か。