グレーブ・ロスティスラーヴィチ
Глеб Ростиславич
ドルツク公 князь Друцкий (1151-58)
生:?
没:1158?
父:ミンスク公ロスティスラーフ・グレーボヴィチ (ミンスク公グレーブ・フセスラーヴィチ)
母:ソフィヤ (ヴラディーミル=ヴォルィンスキイ公ヤロスラーフ・スヴャトポールチチ)
結婚:?
子:?
名 | 生没年 | ||
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母親不詳 | |||
? | ? | トルジョーク公ヤロポルク・ロスティスラーヴィチ |
第10世代。ポーロツク系(ミンスク系)。
両親の結婚についての考察(ロスティスラーフ・グレーボヴィチの項を参照)が正しければ、グレーブ・ロスティスラーヴィチは1130年前後にビザンティン帝国で生まれた、という可能性が高い。
おそらく1140年代前半、父とともにルーシに帰国したものと想像される。
1151年、父がポーロツク公に。父はさらに、前任のポーロツク公であったローグヴォロド・ボリーソヴィチから本領のドルツクも奪い、これをグレーブ・ロスティスラーヴィチに与えた。
1158年、チェルニーゴフ公スヴャトスラーフ・オーリゴヴィチの支援を得たローグヴォロド・ボリーソヴィチが、ドルツクに侵攻。ドルツク市民はこれを歓迎し、グレーブ・ロスティスラーヴィチは公位を追われた。
その後の消息は不明だが、この直後に死んだのではないかと想像される。