ロシア学事始ロシアの君主リューリク家人名録系図人名一覧

リューリク家人名録

ブリャチスラーフ・ヴァシリコヴィチ

Брячислав Василькович

イジャスラーヴリ公 князь Изяславский (1158-59)
ヴィテブスク公 князь Витебский (1175-)

生:?
没:?

父:ポーロツク公ヴァシリコ・スヴャトスラーヴィチ (ヴィテブスク公スヴャトスラーフ・フセスラーヴィチ
母:?

結婚:?

子:

生没年
母親不詳
1ヴァシリコヴィテブスク
?アンドレイロゴジュスク
?ミクーラ

第10世代。ポーロツク系(ヴィテブスク系)。

 1144年頃、父が死去。おそらく父の本領であったヴィテブスクは兄と思われるフセスラーフ・ヴァシリコヴィチが相続したのだろう(厳密には、フセスラーフとブリャチスラーフと、どちらが兄でどちらが弟かは不明)。

 1158年、ドルツク公ローグヴォロド・ボリーソヴィチよりイジャスラーヴリを与えられる。しかし翌1159年、ローグヴォロド・ボリーソヴィチと対立するミンスク公ロスティスラーフ・グレーボヴィチにイジャスラーヴリを奪われ、ブリャチスラーフ・ヴァシリコヴィチは弟ヴォロダーリ・ヴァシリコヴィチともどもミンスクに幽閉された。
 1160年、釈放される。

 1162年、他のポーロツク系の諸公とともに、スルーツクに攻め込んでドロゴブージュ公ヴラディーミル・マーチェシチと戦う。

 1162年、兄(?)フセスラーフ・ヴァシリコヴィチポーロツク公となる。常識的に考えればこの時ブリャチスラーフ・ヴァシリコヴィチがヴィテブスク公位を継いだと思われるのだが、なぜか1165年の時点でヴィテブスク公はロマーン・ヴャチェスラーヴィチ。この男、素性もよくわからない。当時の常識からすれば、兄の跡は弟が継いでしかるべきだが、いかなる事情があったのか不明。
 その1165年、スモレンスク公ロスティスラーフ・ムスティスラーヴィチロマーン・ヴャチェスラーヴィチからヴィテブスクを奪い、子のダヴィド・ロスティスラーヴィチに与えている。
 1167年にダヴィド・ロスティスラーヴィチヴィーシュゴロド公となって後は、ヴィテブスク公は確認されていないが、あるいは兄(?)のポーロツク公フセスラーフ・ヴァシリコヴィチが支配していたのか。あるいはブリャチスラーフ・ヴァシリコヴィチがヴィテブスク公となったのか。あるいはスモレンスク領に併合されていたのか。
 ブリャチスラーフ・ヴァシリコヴィチがヴィテブスク公となったのは1175年とされているが、そのいきさつについても不明。あるいはフセスラーフ・ヴァシリコヴィチが死んだためか(死亡年は不明)。

 1180年、キエフ大公スヴャトスラーフ・フセヴォローディチと同盟してスモレンスク公ダヴィド・ロスティスラーヴィチと戦う。息子ヴァシリコダヴィド・ロスティスラーヴィチの娘と結婚させているが、これはこの時の戦後処理の一環か?

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最終更新日 07 03 2013

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