ボリース・フセスラーヴィチ
Борис Всеславич
ドルツク公 князь Друцкий (1101-19)
ポーロツク公 князь Полоцкий (1119-27)
生:?
没:1127・28
父:ポーロツク公フセスラーフ・ブリャチスラーヴィチ (ポーロツク公ブリャチスラーフ・イジャスラーヴィチ)
母:?
結婚:?
子:
名 | 生没年 | ||
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母親不詳 | |||
1 | ローグヴォロド | ドルツク | |
2 | ヴャチェスラーフ | ||
3 | イヴァン | 修道士 | |
4 | ズヴェニスラーヴァ | 修道女 | |
? | ヴラディミルコ(?) |
第8世代。ポーロツク系。
ドルツク系の始祖。
学者の中には弟のローグヴォロド・フセスラーヴィチと同一人物だと考える者が多い。グストィン年代記には「ポーロツクの公ローグヴォロド、またはボリース」とあり、これが根拠となっている。その場合、ローグヴォロドが異教風の世俗名、ボリースがキリスト教徒としての洗礼名ということになろう。
しかし、だとすると父と子がローグヴォロドという名を共有したということになってしまう(ローグヴォロド・ボリーソヴィチがボリース・フセスラーヴィチの子であったのはまず間違いない)。当時のリューリコヴィチでは父と子が同じ名を共有するというのは一種の «禁忌» であったと考えられているので、これは少々問題である(名前には呪術的な役割がある)。
父の死に際してポーロツクはフセスラーヴィチ兄弟によって分領に分割されたと考えられるが、年代記はその具体的な点については触れていない。のちのことも勘案すると、その時点で、あるいはその後しばらくして、ボリース・フセスラーヴィチはドルツクを分領としてもらったものと考えられる。ただし1116年の時点でドルツクはミンスク公グレーブ・フセスラーヴィチが領有していた。
フセスラーヴィチ兄弟に関してはその長幼の順も不明で、長男ダヴィド・フセスラーヴィチが1101年から1127年までポーロツク公であったとする史料もあれば、長男ロマーン(1101-16)、次男グレーブ(1116-19)を経て、三男であったボリース・フセスラーヴィチが1119年にポーロツク公位を継いだとする史料もある。
いずれにせよ1127年の時点でポーロツク公はダヴィド・フセスラーヴィチであった。ボリースとローグヴォロドが別人だとすると、ボリース・フセスラーヴィチが死んで四男のダヴィト・フセスラーヴィチが後を継いだ、ということだろうか。ボリースとローグヴォロドが同一人物だとすれば(ボリースは死んでいないことになり)、ボリース・フセスラーヴィチは一旦何らかの理由で公位を追われたということなのだろう。