ロシア学事始ロシアの君主リューリク家人名録系図人名一覧

リューリク家人名録

ヴラディーミル・スヴャトスラーヴィチ

Владимир Святославич

ノーヴゴロド公 князь Новгородский (1180-81)

生:?
没:1201

父:チェルニーゴフ公スヴャトスラーフ・フセヴォローディチチェルニーゴフ公フセーヴォロド・オーリゴヴィチ
母:マリーヤ (ポーロツク公ヴァシリコ・スヴャトスラーヴィチ

結婚:1180
  & プレブラーナ公女 (ヴラディーミル=スーズダリ公ミハルコ・ユーリエヴィチ

子:?

第10世代。スヴャトスラーヴィチ(オーリゴヴィチ)。

 スヴャトスラーヴィチ5兄弟の生年や長幼の順は不明。
 長幼の順がよくわからないのは、ひとつにはこの時期にチェルニーゴフ公位を占めていたのが誰か、いまひとつはっきりしないからである。多くの歴史書が、オレーグフセーヴォロドグレーブムスティスラーフがこの順番で(途中に他人がはさまることがあっても)チェルニーゴフ公位を継承した点では一致しているようだ。だとすれば、ここに長幼の順が反映されていると見ていいだろう。問題はヴラディーミルである。
 通常ヴラディーミルはチェルニーゴフ公に数えられていない。年長のイーゴリ・スヴャトスラーヴィチが死んだのが1202年、ヴラディーミル・スヴャトスラーヴィチより後だったので、仕方あるまい。しかしヴラディーミル・スヴャトスラーヴィチは1178年に父からチェルニーゴフ公位を譲られていたとする歴史書もある。父は1177年にキエフ大公になっているので、それも考えられないではない。とすると、ヴラディーミルが長男だということであろう。実際、ヴラディーミルは1180年にノーヴゴロド公とされている。当時はまだ兄弟の誰もが(?)自前の分領を持っておらず、まして与えられたのがノーヴゴロドであるのだから、ヴラディーミルが長男であったと見なしても悪くはあるまい。
 しかし、父子相続よりも兄弟相続が一般的であった当時の慣習からして、ヴラディーミルが父の跡を継いでチェルニーゴフ公になったとは少々考えづらい。そんなことになれば、叔父のヤロスラーフ・フセヴォローディチが異論を唱えないはずがないからだ。結局ヴラディーミルはチェルニーゴフ公にはなっていないのではないだろうか。
 問題は、オレーグの妻が1165年・67年に死んでいるとされる点である。かれの結婚年だけがわからなかったが、もし妻の没年が正しいとすれば、オレーグは兄弟より10年以上前に結婚していたということになる。これを根拠としたのかどうか知らないが、オレーグを長男としてヴラディーミルを次男、あるいは三男としている歴史書もある。
 なお、両親は1143年に結婚したとされている。しかし1198年にチェルニーゴフ公となったのはスヴャトスラーヴィチ兄弟ではなく、1150年頃の生まれと考えられるイーゴリ・スヴャトスラーヴィチである。とすると、スヴャトスラーヴィチ兄弟は1150年代の生まれと見るべきだろう。

 1175年、父と同盟を結んでいたヴラディーミル=スーズダリ公アンドレイ・ボゴリューブスキイが死去。跡目を巡り、弟と甥との間に争いが勃発。父はミハルコ・ユーリエヴィチを支援した。
 1176年、一旦ヴラディーミルを追われたミハルコ・ユーリエヴィチが北上するに際し、ヴラディーミル・スヴャトスラーヴィチは父に従軍を命じられ、ヴラディーミル奪回を手伝った。ミハルコ・ユーリエヴィチの死後は、その弟フセーヴォロド大巣公を支援してリャザニ公グレーブ・ロスティスラーヴィチと戦っている。

 当時ノーヴゴロドは、ルーシの覇権を巡って争う諸勢力から交互に公を招聘して、バランスを取っていた。具体的にはスモレンスク系とヴラディーミル系のモノマーシチ、それにオーリゴヴィチである。そこで、1180年にスモレンスク系のムスティスラーフ勇敢公が死んだ後任として、オーリゴヴィチ一族の父にお声がかかった。父はヴラディーミル・スヴャトスラーヴィチをノーヴゴロド公として派遣した。
 ちょうどこの年、父がスモレンスク系のロスティスラーヴィチ兄弟、そしてかつて公位獲得を支援したフセーヴォロド大巣公との戦争を始めた。1181年、ヴラディーミル・スヴャトスラーヴィチはノーヴゴロド軍を率いて、父とともにドルツク(ポーロツク公領)にてスモレンスク軍と戦う。しかしその隙を突いて、フセーヴォロド大巣公がノーヴゴロド公領のトルジョークを占領。これによりヴラディーミル・スヴャトスラーヴィチは、ノーヴゴロド市民により追い出された(翌1182年のこととも?)。

 1185年、ノーヴゴロド=セーヴェルスキイ公イーゴリ・スヴャトスラーヴィチがポーロヴェツ人に大敗を喫し、その捕虜となる。ポーロヴェツ人の襲来に備えるため、ヴラディーミル・スヴャトスラーヴィチは弟オレーグとともに、セーヴェルスキイ公領のプティーヴリとクールスクにそれぞれ派遣された。

 1191年、イーゴリ・スヴャトスラーヴィチの対ポーロヴェツ人遠征に従軍している(この遠征は失敗に終わった)。

 その後何をしていたのか、わからない。1194年に父が死に、1198年には叔父も死んで、チェルニーゴフ公位が空位になる。これを埋めたのはイーゴリ・スヴャトスラーヴィチだった。
 オーリゴヴィチ一族の最年長者としてイーゴリ・スヴャトスラーヴィチチェルニーゴフ公となるのはわかる。それなら、それまで «ナンバー2» が占めてきたノーヴゴロド=セーヴェルスキイ公位は、どう考えてもそれに次ぐ年長者だったヴラディーミル・スヴャトスラーヴィチのものとなるべきである。ところが、この時ノーヴゴロド=セーヴェルスキイ公となったのが誰か諸説あるものの、その諸説の中にヴラディーミル・スヴャトスラーヴィチは含まれない。やはりヴラディーミル・スヴャトスラーヴィチは兄弟の長男ではなかったということだろうか。
 そもそも、1181年以降のヴラディーミル・スヴャトスラーヴィチの分領が不明。もっともそれを言ったら、チェルニーゴフ公になる以前はスヴャトスラーヴィチ5兄弟全員、その分領が不明ないし不詳である。そこで学者たちは、分領になりそうな都市を選び、いろいろと理屈を考えてはスヴャトスラーヴィチ5兄弟に割り振っている。たとえば、ヴラディーミルにはヴシチージュオレーグにはロパースニャやスタロドゥーブフセーヴォロドにもスタロドゥーブグレーブにはカーネフペレヤスラーヴリムスティスラーフにはコゼリスクなど。

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最終更新日 07 03 2013

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