ロマーン・ミハイロヴィチ
Роман Михайлович
ブリャンスク・チェルニーゴフ公 князь Брянский и Черниговский
生:?
没:1401
父:?
母:?
結婚:?
子:?
素性不詳。
Рыжов Константин. Монархи России. М., 2006 は、クエスチョン・マーク付きながら、チェルニーゴフ公ミハイール・アレクサンドロヴィチの子としている。Рыжов Константин によればミハイール・アレクサンドロヴィチはオレーグ・スヴャトスラーヴィチの曾孫であるから、ロマーン・ミハイロヴィチは第14世代ということになる。
他方、ミハイール・アレクサンドロヴィチはロマーン老公の孫だとする者もいる。とすると、ロマーン・ミハイロヴィチは第15世代ということになる。
父親についてはこのように諸説あるが、スモレンスク公イヴァン・アレクサンドロヴィチ(第15世代)の甥という点では多くの説が一致している。もっとも父方か母方かは明確ではなく、たいていは母方と見なしているようで、ロマーン・ミハイロヴィチ自身はスモレンスク系モノマーシチではなくチェルニーゴフ系オーリゴヴィチと考えられているようだ。
この時期のチェルニーゴフについてはほとんど情報が存在しないため、ロマーン・ミハイロヴィチについても素性のみならず前半生も一切わからない。いきなりブリャンスク・チェルニーゴフ公として歴史に登場している。
当時の一般的な状況からすると、モンゴルの襲来で荒廃したチェルニーゴフは見捨てられており、ロマーン・ミハイロヴィチもブリャンスクに居住していたものと思われる。しかしかつてのチェルニーゴフ公領はグルーホフ・ノヴォシーリ、カラーチェフ、トルーサの小分領が分かれており、チェルニーゴフ公(ブリャンスク公)の権威も地に堕ちていた。
さらにはスモレンスク公領が影響力を強めていて、その下風に立たされることもしばしばだったようである。ロマーン・ミハイロヴィチ自身もイヴァン・アレクサンドロヴィチに従属していたかもしれない。少なくともスモレンスク側はそう見なしていたようで、ロマーン・ミハイロヴィチがスモレンスク公の甥とされるのもここに根拠がある。
1357年、ブリャンスクはリトアニア大公アルギルダスに占領される(「スモレンスクから奪った」とする史書も多い)。
ロマーン・ミハイロヴィチがどうなったかは不明。史書によって言っていることが違うが、セーヴェルスカヤ・ゼムリャー(チェルニーゴフとノーヴゴロド=セーヴェルスキイ)は1357年か1370年かのいずれかに、アルギルダスの子ドミトリユス(ロシア語でドミートリイ・オリゲルドヴィチ)に与えられたとされるのが一般的なようだ。つまりはロマーン・ミハイロヴィチも、リトアニアの占領直後に追い出されたか、しばらくはその宗主権下にブリャンスク・チェルニーゴフ公として生き延びたのか。
その後、モスクワに辿りついたようである。1375年、モスクワ大公ドミートリイ・ドンスコーイによるトヴェーリ遠征に従軍していることが史料に記されている。さらには1380年にもクリコーヴォの戦いに従軍。
このクリコーヴォの戦いには、ドミートリイ・オリゲルドヴィチも従軍していた。
1377年にアルギルダスが死ぬと、リトアニア大公位はヨガイラが継いだ。しかしヨガイラにはポーロツク公アンドリウス以下の異母兄たちがいた。ドミートリイ・オリゲルドヴィチもそのひとりで、ヨガイラと対立したかれは1379年にブリャンスクを去って、ドミートリー・ドンスコーイからペレヤスラーヴリ=ザレスキイを与えられている。
ロマーン・ミハイロヴィチがどのような経緯でヨガイラに接近したのかは不明ながら、クリコーヴォの戦いからしばらくして、ヨガイラからブリャンスクを与えられたようである。
もっとも、ロマーン・ミハイロヴィチがいつブリャンスクを与えられたかは必ずしもはっきりしない。ヨガイラにはカリブタスという同母弟がおり、かれの洗礼名もドミートリイで、しかもかれもノーヴゴロド=セーヴェルスキイ公となっていたため、同時期、あるいは相次いで、ドミートリイ・オリゲルドヴィチというふたりの人物がセーヴェルスカヤ・ゼムリャーの公となっているのである(カリブタスはロシア語では前者と区別するため «ドミートリイ・コリブト» と呼ばれる)。
ドミートリイ・コリブトが1393年頃に公位を失ったのは確かで、この年ロマーン・ミハイロヴィチがチェルニーゴフを与えられている。
1401年、ロマーン・ミハイロヴィチはリトアニア大公ヴィタウタスによりスモレンスクの代官とされる。しかしその年のうちに元スモレンスク公のユーリイ・スヴャトスラーヴィチがスモレンスクを奪回し、ロマーン・ミハイロヴィチは殺された。