ミハイール・ロマーノヴィチ
Михаил Романович
ブリャンスク・チェルニーゴフ公 князь Брянский и Черниговский (1288?-)
生:?
没:1307?
父:ブリャンスク公ロマーン老公 (チェルニーゴフ公ミハイール・フセヴォローディチ)
母:?
結婚:?
子:?
第13世代。スヴャトスラーヴィチ(オーリゴヴィチ)。
生年は不明。兄オレーグ・ロマーノヴィチの生年を1245年とする文献があるが、だとするとミハイール・ロマーノヴィチの生年は1240年代後半というところだろうか。
父が正確にいつ死んだかはよくわからないが、一般的に1288年(以降)とされている。ブリャンスク・チェルニーゴフ公は、兄オレーグ・ロマーノヴィチが継いだ。ミハイール・ロマーノヴィチは、オソーヴィツァを領土としたらしい。しかしオレーグ・ロマーノヴィチはすぐに修道院に入り、公位をミハイール・ロマーノヴィチに譲ったと言われる。
こうしてブリャンスク・チェルニーゴフ公となったはずのミハイール・ロマーノヴィチだが、その後はよくわからない。そもそもミハイール・ロマーノヴィチのブリャンスク・チェルニーゴフ公位すら否定する学者もいるくらいだ。
ブリャンスクは14世紀初頭にどうやらスモレンスク系に奪われていたらしく、少なくとも1309年の時点ではヴァシーリイという別人がブリャンスク公であったから、ミハイール・ロマーノヴィチがブリャンスク公であったとしたら、それまでには死んでいたか、あるいは公位を失っていたことは確かだろう。
一方チェルニーゴフについても、同時期にミハイールという公がいたことは多くの学者が認めるものの、その素性については諸説がある。すなわち、ミハイール・ロマーノヴィチのほかに、ミハイール・アレクサンドロヴィチ、ミハイール・ドミートリエヴィチなど。ミハイール・アレクサンドロヴィチは、リューリク・オーリゴヴィチの孫とされるが、そもそもリューリク・オーリゴヴィチ自身が仮想上の存在である。ミハイール・ドミートリエヴィチは、ムスティスラーフ・スヴャトスラーヴィチの孫とも、ロマーン老公の孫ともされる。ロマーン老公の孫ということは、ミハイール・ロマーノヴィチの甥ということになる。
この時期には、フョードルという名のチェルニーゴフ公もいたようだが、これはミハイール・ドミートリエヴィチの弟とされることがある。
なお、グルーホフ系の諸公はミハイール・ロマーノヴィチの子孫だとする説がある。