ロシア学事始ロシアの君主リューリク家

オーリゴヴィチ

スヴャトスラーヴィチのうち、オレーグ・スヴャトスラーヴィチの子孫をオーリゴヴィチという。キエフ大公位をめぐる、モノマーシチ(特にスモレンスク系)の最大のライバル。
 スヴャトスラーヴィチの本領セーヴェルスカヤ・ゼムリャーの中心都市がチェルニーゴフであったことから、ムーロム系を除くスヴャトスラーヴィチ(つまりはオーリゴヴィチ)は誰もが一度はチェルニーゴフ公位を目指した。とはいえ、通常はオーリゴヴィチは、フセーヴォロド・オーリゴヴィチ(8)の系統(チェルニーゴフ系)とスヴャトスラーフ・オーリゴヴィチ(8)の系統(セーヴェルスキイ系)に分けられる。

 キエフ・ルーシの傍流となり、歴史の表舞台から消え去ろうとしていたスヴャトスラーヴィチは、オーリゴヴィチの始祖オレーグ・スヴャトスラーヴィチ(7)の活躍で再び陽の目を見ることができた。続くフセーヴォロド・オーリゴヴィチ(8)はキエフ大公位を獲得し、モノマーシチと並ぶ有力系統としての地位を確立する。その弟スヴャトスラーフ・オーリゴヴィチ(8)と、子のスヴャトスラーフ・フセヴォローディチ(9)のふたりのスヴャトスラーフにより、ダヴィドヴィチ兄弟を排除してオーリゴヴィチによるセーヴェルスカヤ・ゼムリャーの覇権が確立された。
 この頃は、オーリゴヴィチ一族の最年長者がチェルニーゴフ公、次の年長者がノーヴゴロド=セーヴェルスキイ公に就くことが慣習化していた。このためチェルニーゴフ系(フセーヴォロド・オーリゴヴィチの子孫)とセーヴェルスキイ系とが交互にチェルニーゴフ公となっている。さらに、フセーヴォロド(8)、スヴャトスラーフ(9)、フセーヴォロド真紅公(10)、ミハイール(11)と、オーリゴヴィチの直系は代々キエフ大公となっている。すなわち、ノーヴゴロド=セーヴェルスキイ公チェルニーゴフ公キエフ大公という «進化過程» が確立していた。
 他方、一族に分領を分配するという慣習は、オーリゴヴィチでは確実な形では確認されていない。それだけ一族の最年長者であるチェルニーゴフ公の支配が強固であったということだろうか。一時期セーヴェルスキイ系との間にいさかいがあったようだが、基本的にオーリゴヴィチには、セーヴェルスキイ系も含めて、内紛が少なかったようだ。フセーヴォロド(8)、スヴャトスラーフ(9)、フセーヴォロド真紅公(10)、ミハイール(11)と、代々キエフ大公を獲得しているのも、チェルニーゴフ公としてセーヴェルスカヤ・ゼムリャー全体を掌握していたこと、また一族に内紛が少なかったことが大きいだろう。
 13世紀に入ると、ノーヴゴロド=セーヴェルスキイ公の存在は確認されなくなる。セーヴェルスキイ系の勢力が低下し、チェルニーゴフ系がセーヴェルスカヤ・ゼムリャーの覇権を握ったのであろう。特にフセーヴォロド真紅公(10)とミハイール・フセヴォローディチ(11)の父子は、キエフガーリチをも押さえ、南ルーシ全土の覇権を握る勢いであった。この頃がチェルニーゴフ系オーリゴヴィチの絶頂期であったと言えるだろう。

 モンゴルの襲来ではキエフ・ルーシの中でもっとも深刻な打撃を受け、国土は荒廃。このためオーリゴヴィチは(チェルニーゴフ系もセーヴェルスキイ系も)四分五裂状態に陥った。本拠地を去ったかれらは北東のデスナー川、オカー川の上流域(現ロシア連邦ブリャンスク州、カルーガ州、オリョール州、トゥーラ州など)に移住。ブリャンスクが新たな中心となったが、もはやかつてのチェルニーゴフ公のような求心力はなかった。
 その後大きくグルーホフ系カラーチェフ系トルーサ系に分裂。いずれも14世紀には膨張してきたリトアニアに呑み込まれる。しかしその直後に同じく急速にモスクワが勢力を拡大。相次いでその支配下に入っていった。
 なお、グルーホフ系、カラーチェフ系、トルーサ系というのはここでの便宜的な呼び名。

 家系図はこちらの画像

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最終更新日 07 03 2013

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