ロシア学事始ロシアの君主リューリク家人名録系図人名一覧

リューリク家人名録

ユーリイ・イーゴレヴィチ

Юрий Игоревич

リャザニ公 князь Рязанский (1235-37)

生:?
没:1237.12.21

父:リャザニ公イーゴリ・グレーボヴィチリャザニ公グレーブ・ロスティスラーヴィチ
母:アグラフェーナ (スモレンスク公ロスティスラーフ・ムスティスラーヴィチ

結婚:?

子:

生没年
母親不詳
1フョードル-1237

第11世代。スヴャトスラーヴィチ(ムーロム系)。

 イーゴレヴィチ兄弟の生年は不明。と言うか、リャザニ系は始祖ヤロスラーフ・スヴャトスラーヴィチ以来生年が不明で、イメージがつかみにくいことこの上ない。それでも、父の生年が1160年代だろうと思われるので、イーゴレヴィチ兄弟の生年は1190年前後ででもあろうか。

 1207年当時、リャザニは事実上ヴラディーミル大公フセーヴォロド大巣公の属国状態にあった。しかしチェルニーゴフ公との通牒の疑いをかけられたリャザニ諸公はモスクワに召喚され、そのままヴラディーミルに拘禁された。ユーリイ・イーゴレヴィチも例外ではない。
 1212年、フセーヴォロド大巣公の死で、後を継いだユーリイ・フセヴォローディチによって釈放された。

 1235年、兄イングヴァーリ・イーゴレヴィチの死でリャザニ公位を継ぐ。

 1237年、モンゴルが来襲。バトゥは莫大な貢納金の要求を突き付けてきた。ユーリイ・イーゴレヴィチはふたりの甥オレーグロマーンのイングヴァーレヴィチ兄弟、さらにムーロム公ユーリイ・ダヴィドヴィチプロンスク公とともに、ヴォローネジュ河畔に出陣し、自らバトゥに拒否を回答する。
 この間、ユーリイ・イーゴレヴィチは使者を派遣し、ヴラディーミル大公ユーリイ・フセヴォローディチに救援を要請するが、断られた。
 バトゥは都市リャザニを攻囲。5日間の攻囲の末、リャザニは陥落。
 ユーリイ・イーゴレヴィチはモンゴル軍に捕らえられ、プロンスクに連行され、そこで妻も捕らえられて、ふたりともに殺された。

 なお、『バトゥによるリャザニ破壊の物語』はユーリイを、イーゴリ・グレーボヴィチの子ではなくイングヴァーリ・イーゴレヴィチの子として扱っている。父称からしてユーリイ・イーゴレヴィチではなくユーリイ・イングヴァーレヴィチとなっているし、弟としてオレーク・イングヴァーレヴィチも挙げられている。
 しかし、細かい考証はわからないが、こんにちではこれを誤りとし、ユーリイはイーゴリ・グレーボヴィチの子だとされるのが一般的なようだ。

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最終更新日 07 03 2013

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