ヤロスラーフ・アレクサンドロヴィチ
Ярослав Александрович
プロンスク公 князь Пронский (1340-42)
リャザニ大公 великий князь Рязанский (1342-44)
生:?
没:1344
父:プロンスク公アレクサンドル・ミハイロヴィチ (ミハイール・ヤロスラーヴィチ)
母:?
結婚:?
子:
名 | 生没年 | ||
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母親不詳 | |||
1 | ヴラディーミル | -1372 | プロンスク |
? | ユーリイ | ムーロム |
第17世代。スヴャトスラーヴィチ(ムーロム系)。
ドミートリイとも呼ばれる。ヤロスラーフが異教的な名で、ドミートリイがキリスト教徒としての洗礼名だったのだろうか。
1340年、サライに赴く途上の父が、リャザニ公イヴァン・コロトポルに捕らえられ、殺された。
跡を継いだヤロスラーフ・アレクサンドロヴィチは、サライに赴き、ハーンからプロンスク公位のみならずリャザニ公位をも認める認可状を獲得する。
タタール軍を引き連れて帰国したヤロスラーフ・アレクサンドロヴィチは、ペレヤスラーヴリ=リャザンスキイに侵攻。イヴァン・コロトポルを追ってリャザニ公となる。