フセーヴォロド・ミハイロヴィチ
Всеволод Михайлович
プロンスク公 князь Пронский ?
生:?
没:1237?
父:プロンスク公ミハイール・フセヴォローディチ (プロンスク公フセーヴォロド・グレーボヴィチ)
母:ヴェーラ (チェルニーゴフ公フセーヴォロド真紅公)
結婚:?
子:?
第12世代。スヴャトスラーヴィチ(ムーロム系)。
イパーティイ年代記によれば、1237年、«ミハイールの息子» がモンゴル軍襲来の報せをヴラディーミルにもたらした(ただしラヴレンティイ年代記によれば、ロマーン・イングヴァーレヴィチがヴラディーミル軍を率いて出撃した)。
『バトゥによるリャザニ破壊の物語』は、1237年にモンゴル軍の襲来で命を落としたイングヴァーリ・イーゴレヴィチの子らのひとりに、«プロンスクのフセーヴォロド» を挙げている。これがつまりは、上述の «ミハイールの息子» のことであろうと考えられている(ただし異説もある)。
フセーヴォロド(?)・ミハイロヴィチについては、わかっているのはそのぐらい。名前すらも、このふたつの記事を接合して、おそらくフセーヴォロドだったのだろうとされている程度である。
両親の結婚が1207年前後と想像されるので、おそらく父の死んだ1217年にはフセーヴォロド(?)・ミハイロヴィチはまだ幼年だっただろう。その後も分領をもらった形跡はない。あるいは父の跡を継いでプロンスク公になっていたのかもしれない。