ヴラディーミル・グレーボヴィチ
Владимир Глебович
リャザニ公 князь Рязанский
生:?
没:?
父:リャザニ公グレーブ・ロスティスラーヴィチ (リャザニ公ロスティスラーフ・ヤロスラーヴィチ)
母:? (ペレヤスラーヴリ公ロスティスラーフ・ユーリエヴィチ)
結婚:?
子:
名 | 生没年 | ||
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母親不詳 | |||
1 | グレーブ | -1219 | リャザニ |
2 | オレーグ | -1208 | プロンスク |
3 | コンスタンティーン | ||
4 | イジャスラーフ | -1217 |
第10世代。スヴャトスラーヴィチ(ムーロム系)。
リャザニはすでに12世紀には、どうやら年代記作者たちにとって、ヴラディーミル=スーズダリとの関連以外では言及する気も起きないような、どうでもいい存在になっていたようだ。特に1178年に父がヴラディーミル大公フセーヴォロド大巣公に敗北して以降は、フセーヴォロド大巣公の業績を語るついでに言及されるにすぎない。
ヴラディーミル等グレーボヴィチ兄弟についても、その生年もわからないし、1180年以前に誰がどこで何をしていたのかもよくわからない。
1180年、ヴラディーミル・グレーボヴィチは、弟(?)フセーヴォロドとともに、兄ロマーン & イーゴリに対して反旗を翻す。
ロマーン・グレーボヴィチがキエフ大公スヴャトスラーフ・フセヴォローディチと結ぶと、ヴラディーミルとフセーヴォロドは、リャザニに宗主権を及ぼしていたフセーヴォロド大巣公に兄の所業を告訴。フセーヴォロド大巣公はリャザニに侵攻し、グレーボヴィチ兄弟を和解させて、領土を再配分した。
1180年の領土再配分がどのようなものかは不明だが、1186年の時点でグレーボヴィチ兄弟は、ロマーン、イーゴリ、ヴラディーミルがリャザニを、フセーヴォロドとスヴャトスラーフがプロンスクを、それぞれ共同で領有していた。
1186年、ヴラディーミル・グレーボヴィチ等リャザニの3人は、プロンスク侵攻を計画。プロンスクのふたりはフセーヴォロド大巣公に救援を要請。援軍接近の報せに、一旦は軍を引き揚げたヴラディーミル・グレーボヴィチ等は、フセーヴォロド・グレーボヴィチがフセーヴォロド大巣公の軍に合流するためヴラディーミルに赴くと、改めてプロンスクを攻囲。スヴャトスラーフ・グレーボヴィチを抱き込み、プロンスクを占領した。
1187年、フセーヴォロド大巣公がリャザニに侵攻。ヴラディーミル・グレーボヴィチ等は抗し得ず、プロンスクをフセーヴォロド・グレーボヴィチに返還した。
1195年にヴラディーミルでコンスタンティーン賢公(フセーヴォロド大巣公の長男)の結婚式に参列している。翌1196年にはフセーヴォロド大巣公のチェルニーゴフ遠征に従軍。
これ以降、リャザニは1207年までフセーヴォロド大巣公とのかかわりを持たなかったようで、そのため年代記でも言及されていない。
ヴラディーミル・グレーボヴィチも、1207年までには死んでいたらしい。