ロシア学事始ロシアの君主リューリク家人名録系図人名一覧

リューリク家人名録

ロスティスラーフ・スヴャトスラーヴィチ

Ростислав Святославич

生:?
没:1217

父:プロンスク公スヴャトスラーフ・グレーボヴィチリャザニ公グレーブ・ロスティスラーヴィチ
母:?

結婚:?

子:?

第11世代。スヴャトスラーヴィチ(ムーロム系)。

 母親、生年、分領、また父の死(1212年頃)の後どこでどうしていたか、等、皆目見当もつかない。それどころか、父親も実はわかっていない。
 ロスティスラーフの名が言及されるのは、1217年の事件についてだけ。しかも父称はない。そこで父親は誰かが問題となるわけだが、タティーシチェフを始め、学者の中にはロマーン・グレーボヴィチだと考える者もある。しかしヴォスクレセンスカヤ年代記には明確にロマーン・グレーボヴィチに子がなかったと記されており、しかももしロマーン・グレーボヴィチの子であったとするならば、かれこそがグレーボヴィチ兄弟の死滅後にリャザニ公位を継ぐべき人物であるが、公位を継いでいるとは思えないので、一般的にはスヴャトスラーフ・グレーボヴィチの子とされている(ニーコン年代記はそのものズバリ、ロスティスラーフ・スヴャトスラーヴィチと父称付きで挙げている)。
 生年について言えば、父がロマーン・グレーボヴィチであった場合、1180年までには結婚していたと考えられるので、ロスティスラーフは1180年代に生まれたとしていいだろう。しかし父がスヴャトスラーフ・グレーボヴィチであったとすると、グレーボヴィチ兄弟の年少の弟であったかれの生年は1170年頃ではないかと想像(あくまでも想像)されるので、ロスティスラーフの生年は1190年代かと想像してみることもできる。少なくとも1180年代とは考えづらい。
 分領について言うと、リャザニ系では分領を設けるということをしないので、持っていなかったのはまず確実だろう。

 1207年、父(どちらであれ)とともにヴラディーミル大公フセーヴォロド大巣公に召喚され、そのまま監禁された。
 1212年のフセーヴォロド大巣公の死で釈放されたようだが、どこで何をしていたかわからない。
 ただし厳密に言うと、1207年に監禁された6人の諸公の中にロスティスラーフの名はない。名前不詳の諸公のひとりがロスティスラーフだったろうと想像されているだけである。

 1217年、従兄弟のグレーブ・ヴラディーミロヴィチに宴会に招かれる。しかしその席上、ほかのリャザニ系諸公とともに、グレーブ・ヴラディーミロヴィチに皆殺しにされた。

 なお、ロスティスラーフの名は実は1186年から88年の事件の際にも言及されている。しかもロマーンスヴャトスラーフ等グレーボヴィチ兄弟と併記されている。このため、ロスティスラーフは実はグレーボヴィチ兄弟の子の世代ではなく、グレーボヴィチ兄弟と同世代だったのではないかと考えることもできるが、このロスティスラーフはロスティスラーフ違いか、あるいは単なる年代記のミスかと考えた方がいいだろう。

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最終更新日 07 03 2013

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