ロシア学事始ロシアの君主リューリク家人名録系図人名一覧

リューリク家人名録

オレーグ・イングヴァーレヴィチ «クラースヌィイ»

Олег Ингваревич "Красный"

リャザニ公 князь Рязанский (1252-58)

生:?
没:1258.03

父:リャザニ公イングヴァーリ・イーゴレヴィチリャザニ公イーゴリ・グレーボヴィチ
母:?

結婚:?

子:

生没年
母親不詳
1ロマーン-1270リャザニ

第12世代。スヴャトスラーヴィチ(ムーロム系)。

 リャザニ系諸公の生年はいずれも不明だが、イングヴァーレヴィチ兄弟の場合、想像で言うならば1210年代だろうか(父の世代が1190年頃の生年と想像されるので)。

 一時は山のようにいたリャザニ系諸公は、1237年の時点ではオレーグ・イングヴァーレヴィチ兄弟と、叔父ユーリイ・イーゴレヴィチとその子たちだけになっていた。さらに1237年のモンゴルの来襲でそのほとんどが命を落とし、生き残ったのはイングヴァーリ、オレーグ、ロマーンの3人だけだった。しかもロマーンは直後にモンゴル軍との戦いで戦死。イングヴァーリについてはその実在が学者の間でも問題となっており、オレーグはと言えばモンゴル軍の捕虜となっていた。
 モンゴル軍は、ユーリイ・イーゴレヴィチなど捕虜としたルーシ諸公を容赦なく殺していた。その中でオレーグ・イングヴァーレヴィチは、モンゴル軍の捕虜となりながら生き永らえた唯一の公となった。理由はわからない。
 オレーグ・イングヴァーレヴィチが虜囚時代をいかに過ごしたかはわかっていない。1252年、兄イングヴァーリ・イングヴァーレヴィチの死で(?)ようやく釈放され、リャザニに帰還。兄の後を継いでリャザニ公となった。

 死に臨んで修道士となる。

 添え名の «クラースヌィイ» は古義では「美しい」という意味(現代では「赤い」)。

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最終更新日 07 03 2013

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