ロシア学事始ロシアの君主リューリク家人名録系図人名一覧

リューリク家人名録

イングヴァーリ・イーゴレヴィチ

Ингварь Игоревич

リャザニ公 князь Рязанский (1217-35)

生:?
没:1235

父:リャザニ公イーゴリ・グレーボヴィチリャザニ公グレーブ・ロスティスラーヴィチ
母:アグラフェーナ (スモレンスク公ロスティスラーフ・ムスティスラーヴィチ

結婚:?

子:

生没年
母親不詳
?ユーリイ-1237リャザニ
1イングヴァーリ-1252?リャザニ
2オレーグ-1258リャザニ
3ナデージュダウーグリチ公ヴラディーミル
4ロマーン-1238
?グレーブ-1237コロームナ
?ダヴィド-1237ムーロム
?フセーヴォロド-1237プロンスク

第11世代。スヴャトスラーヴィチ(ムーロム系)。

 イーゴレヴィチ兄弟の生年は不明。と言うか、リャザニ系は始祖ヤロスラーフ・スヴャトスラーヴィチ以来生年が不明で、イメージがつかみにくいことこの上ない。それでも、父の生年が1160年代だろうと思われるので、イーゴレヴィチ兄弟の生年は1190年前後ででもあろうか。

 1195年、父が死去。おそらく当時、リャザニでは分領が設けられず、全諸公が共同でリャザニを支配していたのではないかと思われる。イングヴァーリ等イーゴレヴィチ3兄弟も伯父たちに加わったのだろう。

 1207年、内紛もからんで、リャザニ諸公はヴラディーミル大公フセーヴォロド大巣公にモスクワに召喚される。フセーヴォロド大巣公の敵であったチェルニーゴフ公フセーヴォロド真紅公に通じていたとの疑いをかけられ、そのままヴラディーミルに拘禁された。

 1212年、フセーヴォロド大巣公が死去。後を継いだユーリイ・フセヴォローディチにより釈放された。

 1217年、従兄弟のグレーブ・ヴラディーミロヴィチがリャザニ諸公を宴会に招く。しかしこれは陰謀で、グレーブコンスタンティーンのヴラディーミロヴィチ兄弟は、集まった6人のリャザニ諸公をポーロヴェツ人の力も借りて皆殺しにした。その中にはかれらの実弟イジャスラーフ・ヴラディーミロヴィチも、イングヴァーリ・イーゴレヴィチの兄ロマーン・イーゴレヴィチもいた。
 リャザニ諸公10人のうち、この事件を生き延びたのは、当事者のふたりのほかは、遅参したイングヴァーリとユーリイのイーゴレヴィチ兄弟だけだった。リャザニ公だったロマーン・イーゴレヴィチも殺されたため、イングヴァーリ・イーゴレヴィチがリャザニ公位を継いだ。

 あるいはイーゴレヴィチ兄弟を殺し損なったのが誤算だったのか、ヴラディーミロヴィチ兄弟はポーロヴェツ人のもとに逃亡。
 1218年、ポーロヴェツ人を率いてリャザニに来襲するが、イーゴレヴィチ兄弟がこれを撃退した。
 1219年、ユーリイ・フセヴォローディチの援軍も得てステップに遠征。ポーロヴェツ人を撃破した。
 こうして、あれだけ多数いたリャザニ諸公は、イングヴァーリとユーリイのイーゴレヴィチ兄弟だけが残った。

 1232年、ヴラディーミル大公ユーリイ・フセヴォローディチが、息子のフセーヴォロド・ユーリエヴィチをモルドヴァー人遠征に派遣しているが、この時ムーロム系・リャザニ系諸公も遠征に従軍している。特に名は挙げられていないが、あるいはイングヴァーリ・イーゴレヴィチ自身もモルドヴァー人遠征に従軍していたかもしれない。

 年代記には多数の息子たちが列挙されているが、いずれも1237年のモンゴル軍の襲来で命を落としたとされる «リャザニのユーリイ»、«コロームナのグレーブ»、«ムーロムのダヴィド»、«プロンスクのフセーヴォロド» は、単なる記録の間違いではないかと想像されている。
 つまり、多少こじつけ気味のものもあるが次のような説である。«リャザニのユーリイ» は弟ユーリイ・イーゴレヴィチ、«コロームナのグレーブ» はよくわからないが、«ムーロムのダヴィド» はムーロム公ユーリイ・ダヴィドヴィチ、«プロンスクのフセーヴォロド» はプロンスク公フセーヴォロド・グレーボヴィチとする説(1207年以前に死んでいるので間違えようがない)と、フセーヴォロド・ミハイロヴィチとする説(かれの名がフセーヴォロドであった証拠はない)がある。

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最終更新日 07 03 2013

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