イーゴリ・グレーボヴィチ
Игорь Глебович
リャザニ公 князь Рязанский (1180)
生:?
没:1195
父:リャザニ公グレーブ・ロスティスラーヴィチ (リャザニ公ロスティスラーフ・ヤロスラーヴィチ)
母:? (ペレヤスラーヴリ公ロスティスラーフ・ユーリエヴィチ)
結婚:
& アグラフェーナ公女 -1237 (スモレンスク公ロスティスラーフ・ムスティスラーヴィチ)
子:
名 | 生没年 | ||
---|---|---|---|
アグラフェーナ・ロスティスラーヴナと | |||
1 | ロマーン | -1217 | リャザニ |
2 | イングヴァーリ | -1235 | リャザニ |
3 | ユーリイ | -1237 | リャザニ |
第10世代。スヴャトスラーヴィチ(ムーロム系)。
1174年、ヴラディーミル大公アンドレイ・ボゴリューブスキイが死去。父は後継争いに介入する。
1177年、父に従いヴラディーミル攻略。ヴラディーミル大公フセーヴォロド大巣公に敗北した。
父はフセーヴォロド大巣公の捕虜となって獄死している。
父の敗北後、リャザニは事実上フセーヴォロド大巣公の属国化していた。結局父の死後、兄のロマーン・グレーボヴィチが、以後フセーヴォロド大巣公の «傀儡» になることを条件に釈放され、リャザニ公となった。
ムーロム=リャザニは実に奇妙な公国で、祖父の代にムーロムとリャザニのふたつの分領に分裂した後、一時エレーツに分領公が立ったとも言われるが、基本的にムーロムもリャザニもそれ以上の分領に分割されていない。
グレーボヴィチ兄弟5人の生年はいずれも不明だが、両親の結婚が父が1159年にリャザニに帰還した後のことと考えられることから、1160年代であろうかと推定される。とすれば、あるいは弟たちは父の死んだ1178年の時点ではまだ幼少だったのかもしれないが、すでに従軍も果たしていたイーゴリ・グレーボヴィチにもこれといった分領が与えられなかったというのは、いささか解せない。
もっとも、厳密に言えばまったく自前の土地が与えられなかったわけではないようだが、かれらの領土は年代記では «分領 удел» ではなく «領地 волость» としか呼ばれていない。
あるいはイーゴリ・グレーボヴィチは、おそらく次男だと思われるので、それでも兄から優遇されていたのかもしれない。そしてそれが不満を呼び起こしたのだろう。1180年、弟のヴラディーミルとフセーヴォロドがロマーンとイーゴリに対して反発し、フセーヴォロド大巣公に泣きを入れた。もっともこの事件に関して、イーゴリ・グレーボヴィチの名が言及されているのはここまで。これ以降はどうやら姿を消している。
フセーヴォロド大巣公がリャザニに侵攻し、グレーボヴィチ兄弟を和解させ、事態は収拾された。
1183年、フセーヴォロド大巣公に従いヴォルガ・ブルガールに遠征。
1186年までに、グレーボヴィチ兄弟は上の3人がリャザニを、下のふたりがプロンスクをそれぞれ共同支配するという体制をつくりあげていた(あるいは1180年の後始末として出来上がったのか?)。
どのようないきさつがあったかはわからないが、1186年、リャザニにいるイーゴリ・グレーボヴィチ等上の3兄弟が、プロンスクにいる下の2兄弟を攻撃。最終的にはスヴャトスラーフ・グレーボヴィチを引きこんで、フセーヴォロド・グレーボヴィチをプロンスクから追った。
フセーヴォロド・グレーボヴィチはフセーヴォロド大巣公に救援を要請。1187年、その軍事的圧力に屈し、イーゴリ・グレーボヴィチ等はフセーヴォロド・グレーボヴィチと講和を結び、プロンスクを返還した。