ユーリイ・ドミートリエヴィチ
Юрий Дмитрьевич
ズヴェニーゴロド公・ガーリチ公 князь Звенигородский и Галичский (1389-1433)
モスクワ大公 великий князь Московский (1433、34)
生:1374.11.26−ペレヤスラーヴリ=ザレスキイ
没:1434.07.05−モスクワ (享年59)
父:モスクワ大公ドミートリイ・ドンスコーイ (モスクワ公イヴァン2世赤公)
母:エヴドキーヤ (スーズダリ公ドミートリイ・コンスタンティーノヴィチ)
結婚:1400
& アナスタシーヤ公女 -1422 (スモレンスク公ユーリイ・スヴャトスラーヴィチ)
子:
名 | 生没年 | ||
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母親不詳 | |||
1 | ヴァシーリイ・コソーイ | 1403-48 | ズヴェニーゴロド |
2 | イヴァン | -1432 | (修道士) |
3 | ドミートリイ・シェミャーカ | 1420-53 | ガーリチ |
4 | ドミートリイ・クラースヌィイ | -1441 | ウーグリチ |
第16世代。モノマーシチ(モスクワ系)。洗礼名ゲオルギー(=ユーリイ)。ドミートリイ・ドンスコーイの次男。
1389年、父が死去。モスクワ大公位は兄ヴァシーリイ1世が継いだ。ユーリイ・ドミートリエヴィチは、父の遺言により、ガーリチ=メールスキイ、ズヴェニーゴロド、ルーザ、ヴィーシュゴロド等を分領として与えられ、同時に兄の後継者とされた。
ヴァシーリイ1世のもと、軍事・政務に活躍。
1395年(?)、ヴォルガ中流域に侵攻。ルーシ諸公として初めて(?)タタールの領土の奥深くを蹂躙した。1414年には、兄に反抗していたニージュニイ・ノーヴゴロドを奪取。また、自領の主都としたズヴェニーゴロドの美化に努め、アンドレイ・ルブリョーフなどを招いている。軍人としても政治家としても芸術の庇護者としても、高い評価を得ていたらしい。
父の遺言によれば、ヴァシーリイ1世の死後は、ユーリイ・ドミートリエヴィチがモスクワ大公位を継ぐことが定められたという。これは当時ヴァシーリイ1世にはまだ男子がいなかったためである。当然、ヴァシーリイ1世に男子が誕生したことで状況は変化した。
1417年、ヴァシーリイ1世の嫡男イヴァン・ヴァシーリエヴィチが21歳の若さで死去。これにより、ヴァシーリイ1世に残された息子はまだ2歳のヴァシーリイ・ヴァシーリエヴィチだけとなった。ヴァシーリイ1世の次はユーリイ・ドミートリエヴィチに、というドミートリイ・ドンスコーイの遺言がほんとうにあったかどうか、ヴァシーリイ1世がそれに従う気があったかどうかは知らないが、自分の死後幼い息子がどうなるかを考えるようになっただろう。
1419年、ヴァシーリイ1世は弟たちに、大公位継承権の放棄を要求する。ユーリイ・ドミートリエヴィチはこれを拒否。ヴァシーリイ1世の晩年は、一族間に緊張をはらんだまま過ぎていった。
1425年、兄が死に、その遺児ヴァシーリイ2世がモスクワ大公になる。まだ9歳のヴァシーリイ2世に代わり、府主教フォーティイと母后ソフィヤ・ヴィトフトヴナが実権を握った。
府主教フォーティイはユーリイ・ドミートリエヴィチを含む叔父たちをモスクワに呼び寄せたが、いまや一族の最年長者となったユーリイ・ドミートリエヴィチはこれを拒否。当時のルーシでは最年長者が年長権に従って公位を継ぐのが一般的であり、子が父の跡を継ぐというのは(年長権を持たない限りは)あまり見られなかった。父の遺言があったにせよなかったにせよ、ユーリイ・ドミートリエヴィチとしては自分こそがモスクワ大公位を継ぐべきだ、と考えても何ら不思議はない(むしろ不思議は、この後の経緯が示すように、周囲がそう考えなかったことだ)。
ユーリイ・ドミートリエヴィチはズヴェニーゴロドからガーリチ=メールスキイに移って、戦の準備を始めた。
1426年、弟たちも含んだモスクワ軍が攻めてくると、ユーリイ・ドミートリエヴィチはニージュニイ・ノーヴゴロドに逃亡。ここもコンスタンティーン・ドミートリエヴィチに攻められて逃亡。再びガーリチ=メールスキイに戻り、自ら乗り出した府主教フォーティイの仲裁で、モスクワと停戦した。
1428年、ユーリイ・ドミートリエヴィチはモスクワと講和。ヴァシーリイ2世の大公位を承認した。この年、弟ピョートル・ドミートリエヴィチが死去。遺領ドミートロフはモスクワに併合されたが、ユーリイ・ドミートリエヴィチはこれに反発。再び対立が深まった。
1430年、府主教フォーティイも死んで、ユーリイ・ドミートリエヴィチとヴァシーリイ2世とを仲裁する人物がいなくなった。さらにリトアニア大公ヴィタウタスが死去。これにより母后ソフィヤ・ヴィトフトヴナは後ろ盾を失う。こうして勢力バランスまでもが大きく変わった。
1431年、ユーリイ・ドミートリエヴィチとヴァシーリイ2世は相争うようにサライに伺候。ハーンから大公位の認可状を獲得しようとし、その結果、1432年、ウル=ムハンマドはヴァシーリイ2世の大公位を認めた。ただしこれに対する補償として、ドミートロフの領有はユーリイ・ドミートリエヴィチに認めた。ところがヴァシーリイ2世は、ドミートロフをユーリイ・ドミートリエヴィチに割譲しようとしなかった。
1433年、ヴァシーリイ2世がマリーヤ・ヤロスラーヴナと結婚。宴席の場で、出席していたヴァシーリイ・コソーイの黄金の帯を、ソフィヤ・ヴィトフトヴナが没収するという事件が起こった。もともとドミートリイ・ドンスコーイの所有していたこの帯は、嫡系であるヴァシーリイ2世が所持すべきだという理屈だったようだが、当然ヴァシーリイ・コソーイの反発を招いた。
ヴァシーリイ・コソーイと弟ドミートリイ・シェミャーカは、父ユーリイ・ドミートリエヴィチのガーリチ=メールスキイへ。その途上、ヤロスラーヴリを攻略した。
息子たちの訴えを聞いたユーリイ・ドミートリエヴィチも軍を興し、ペレヤスラーヴリを占領。モスクワはこの時になってはじめてユーリイ・ドミートリエヴィチの軍事行動について知った。
ユーリイ・ドミートリエヴィチはさらにモスクワ近郊でヴァシーリイ2世を破り、コストロマーに逃亡したヴァシーリイ2世を追って捕虜とした。
モスクワに入城したユーリイ・ドミートリエヴィチは自らモスクワ大公となるが、ヴァシーリイ2世にはコロームナを与える。息子たちはこの措置に猛反対したものの、ユーリイ・ドミートリエヴィチはお別れの宴会を盛大に催し、ボヤーリンたちがヴァシーリイ2世に同行することも許した。
しかしコロームナには、ヴァシーリイ2世を支持する人々が大量に結集。モスクワ市民の支持も得られなかったユーリイ・ドミートリエヴィチは、自らヴァシーリイ2世を呼び戻してモスクワを明け渡し、ガーリチに帰還した(在位は5ヶ月)。ユーリイ・ドミートリエヴィチは補償として、ドミートロフの代わりにベジェツキイ・ヴェルフを受け取った。
息子たちはヴァシーリイ2世に屈服せず、戦いを継続。ガーリチ=メールスキイ軍がその軍に加わっていたことから、ユーリイ・ドミートリエヴィチも否応なくヴァシーリイ2世との戦争を再開することになった(ユーリイ・ドミートリエヴィチは結んだばかりの和平に忠実で、開戦には消極的だったという)。
1434年、ヴァシーリイ2世にガーリチ=メールスキイを攻められベロオーゼロに逃亡(ベロオーゼロ公ミハイール・アンドレーエヴィチは支持者だった)。息子たちと合流したユーリイ・ドミートリエヴィチはモスクワに侵攻し、ロストーフ近郊でヴァシーリイ2世軍を破ってモスクワを占領。
再びモスクワ大公となったユーリイ・ドミートリエヴィチは、リャザニ大公イヴァン・フョードロヴィチと同盟。ニージュニイ・ノーヴゴロドに逃亡したヴァシーリイ2世に対しては、ふたりのドミートリイ(シェミャーカと赤公)を派遣した。
しかし大公としての職務に本格的に乗り出そうとした矢先に、わずか2ヶ月の在位でユーリイ・ドミートリエヴィチは死去。
クレムリンのアルハンゲリスキイ大聖堂に葬られる。