ロシア学事始ロシアの君主リューリク家人名録系図人名一覧

リューリク家人名録

ヴァシーリイ3世・イヴァーノヴィチ

Василий Иванович

モスクワ大公 великий князь Московский (1505-33)
ツァーリ царь всея Руси

生:1479.03.25
没:1533.12.03/04(享年54)−モスクワ

父:モスクワ大公イヴァン3世大帝モスクワ大公ヴァシーリイ2世盲目公
母:ソフィヤ・パレオローグ (モレア僭主トマス・パライオロゴス)

結婚①:1506(1525離婚)
  & ソロモーニヤ -1542 (ユーリイ・イヴァーノヴィチ・サブーロフ)

結婚②:1526
  & エレーナ -1538 (ヴァシーリイ・リヴォーヴィチ・グリンスキイ)

子:

生没年
エレーナ・ヴァシーリエヴナと
1イヴァン1530-84モスクワ
2ユーリイ1532-63ウーグリチ

第19世代。モノマーシチ(モスクワ系)。洗礼名ガヴリイール。イヴァン3世の第五子(次男)。ソフィヤ・パレオローグにとっては長男だった。

 ヴァシーリイ・イヴァーノヴィチは次男で、本来跡継ぎの地位にはなかった。父の後を継ぐべきは異母兄のイヴァン・イヴァーノヴィチ。1485年に父がイヴァン・イヴァーノヴィチトヴェーリ公としたのも、その母がトヴェーリ公女だったという血のつながりもあったにせよ、これによりいずれはトヴェーリがモスクワに併合されることを見込んでのことだっただろう。
 1490年、イヴァン・イヴァーノヴィチが死去。当然、父の跡継ぎの地位は、兄の遺児ドミートリイ・イヴァーノヴィチが継ぐはずであった。もっとも、当時はまだ長子相続制は確立しておらず、しかもドミートリイ・イヴァーノヴィチがまだ6歳だったこともあって、後継者を誰にするかは曖昧になった。とはいえ、ボヤーリンの大多数はドミートリイ・イヴァーノヴィチとその母エレーナ・ステパーノヴナを支持していた。
 ヴァシーリイ・イヴァーノヴィチの母后であり現大公妃ソフィヤ・パレオローグはモスクワでは嫌われていた。それでも宮廷官などの中にはヴァシーリイ・イヴァーノヴィチを支持する者もおり、かれらは大公位獲得のための策謀を始める。それはついにはヴォーログダで挙兵しドミートリイ・イヴァーノヴィチを殺す計画にまで至るが、この陰謀は1497年に露見。ヴァシーリイ・イヴァーノヴィチは宮廷内に軟禁され、6人の首謀者が処刑され、多くが投獄された。ソフィヤ・パレオローグも失権し、1498年にはドミートリイ・イヴァーノヴィチがウスペンスキイ大聖堂で大公に即位した。

 1499年、イヴァン・パトリケーエフ公セミョーン・リャポロフスキイ公とが失脚。年代記は理由を伝えていないが、かれらは反ソフィヤ派の有力貴族だった。一旦はドミートリイ派の勝利に終わったはずの後継者争いは、表面化はしないものの、水面下にて続けられていた。
 1502年、ドミートリイ・イヴァーノヴィチエレーナ・ステパーノヴナは失権。以後ドミートリイ・イヴァーノヴィチは大公と呼ばれなくなる。その直後、ヴァシーリイ・イヴァーノヴィチが代わって大公とされた。結果的には、これを以てヴァシーリイ・イヴァーノヴィチがイヴァン3世の後継者に確定したことになった。イヴァン3世に続いてヴァシーリイ・イヴァーノヴィチも、父の生前に父から大公の名乗りを許された。

 1505年、父の死で即位。

 ヴァシーリイ・イヴァーノヴィチの妃については、すでに父がリトアニア、デンマーク、ドイツなどに相応しい女性を探していたが、種々の障害がありいずれも失敗に終わっていた。
 1506年に、おそらく母后ソフィヤ・パレオローグの影響だろうが(もっとも当時すでにソフィヤ・パレオローグは死んでいた)、ルーシで初めての «花嫁コンテスト» を開催し、1 500人の乙女たちの中からヴァシーリイ・イヴァーノヴィチがソロモーニヤ・サブーロヴァを選んだ。その父親はボヤーリンですらなかった。

 父の死の前後、タタールとの関係が急激に変化していた。
 事実上属国扱いしてきたカザン・ハーン国では、親モスクワ派と反モスクワ派の対立の中でムハンマド=アミーンが父の死の直前にニージュニイ・ノーヴゴロドに侵攻。ヴァシーリイ・イヴァーノヴィチは1506年に報復攻撃をおこなうが、敗退している。
 他方、父の忠実な同盟者であったクリムのメングリ=ギレイは、父の死を境に政策を 180° 転換させ、リトアニアと反モスクワ同盟を結ぶ。

 1506年、リトアニア大公アレクサンドラス/ポーランド王アレクサンデル(ヴァシーリイの義兄でもある)が死去。弟のジギマンタス/ジグムントが後を継いだ。
 リトアニアではかねて1503年に失われたセーヴェルスカヤ・ゼムリャーを奪回しようとの動きがあり、モスクワがカザン・ハーンに敗北したことを受けて、1507年にはリトアニア議会がヴァシーリイ・イヴァーノヴィチに対して最後通牒を突きつけてきた。ジギマンタスはメングリ=ギレイと同盟し、ヴァシーリイ・イヴァーノヴィチを孤立させた。これに対してヴァシーリイ・イヴァーノヴィチは先制攻撃を仕掛け、新たなモスクワ・リトアニア戦争が始まった。
 リトアニア軍はセーヴェルスカヤ・ゼムリャーに侵攻。さらにクリム・ハーン軍が上流諸公領に侵攻したが、ヴァシーリイ・ホルムスキイ公がこれを撃退した。ヴァシーリイ・ホルムスキイ公はそのままムスティスラーヴリを攻囲するが、陥とせず。

ちなみに、1507年のこの攻撃が、クリム・ハーン国によるモスクワ/ロシアに対する最初の遠征。以後、1783年にロシアに併合されるまで、クリム・ハーン国はほぼ毎年モスクワ/ロシアに対する遠征を繰り返した。とはいえ、17世紀以降に被害を受けたのは主にウクライナや南ロシア。

 すでにアレクサンドラスの晩年に、その寵臣ミハイール・グリンスキイ/ミコラス・グリンスキス/ミハウ・グリニスキと、かれに敵対する大貴族たちケースガイラ、ラドヴィラス等との争いがヴィリニュス宮廷では始まっていたが、ジギマンタスはミハイール・グリンスキイを宮廷から追放した。ミハイール・グリンスキイは外国に泣きつき、ジギマンタスの長兄であるボヘミア・ハンガリー王ヴワディスワフもミハイール・グリンスキイの完全復権を要求し、メングリ=ギレイに至っては同盟の破棄をちらつかせてきた。
 1508年、ミハイール・グリンスキイがトゥーロフで蜂起。ヴァシーリイ・イヴァーノヴィチに臣従を誓い、ヴァシーリイ・シェミャーチチとともにミンスクやスルーツクを攻囲した。さらにヤーコフ・コーシュキンダニイール・シチェニャー公がオールシャを攻囲する。
 しかし戦線は膠着化。この年のうちに講和が結ばれた。これは1503年の国境を再確認したもので、その点ではヴァシーリイ・イヴァーノヴィチの勝利であった。しかし新たな領土を獲得することはできず(クールスクを獲得したのはこの時だとも言われる)、ミハイール・グリンスキイの所領も没収された。

 おそらくリトアニアとの戦争を通じて、最前線に位置するプスコーフの重要性が認識されたのだろう。1509年、ヴァシーリイ・イヴァーノヴィチはイヴァン・レプニャー公をプスコーフの代官に任ずる。しかしモスクワ大公の支配をプスコーフに及ぼそうとするこの試みはプスコーフ市民の反発を呼び、プスコーフ市民はヴァシーリイ・イヴァーノヴィチに上訴。
 しかしヴァシーリイ・イヴァーノヴィチがこれを聞き入れるはずもなく、ノーヴゴロトに赴いてプスコーフの民会(ヴェーチェ)の廃止を命令する。1510年には自らプスコーフに乗りこみ、有力者とその一族をモスクワに強制移住させる。また周辺の農村を没収し、モスクワ領とした。こうしてプスコーフはモスクワに併合された。

 1509年、ドミートリイ・イヴァーノヴィチが獄死。すでにドミートリイ・イヴァーノヴィチが無力化されて久しかったものの、ヴァシーリイ・イヴァーノヴィチの大公位に正統性で挑戦し得る存在が消えたことで、ヴァシーリイ・イヴァーノヴィチもホッとしたことだろう。

 カザン・ハーン国では、依然として親モスクワ派と反モスクワ派との対立が続いていたようだが、おそらくこれと関連があるのだろう。ヴァシーリイ・イヴァーノヴィチは1508年に、ベロオーゼロに幽閉していたアブドゥル=ラティーフ(ムハンマド=アミーンの弟)を釈放し、ユーリエフ=ポリスキイを分領として与えた。
 1510/11年には、ムハンマド=アミーンと条約を結び、モスクワ大公の宗主権を認めさせる。

 ルーシ領の «回収» を進めるモスクワにとって、セーヴェルスカヤ・ゼムリャーを確保し、プスコーフを併合したいま、次の目標はスモレンスクだった。他方でリトアニアにとっても、1508年の講和は不本意なものであった。こうして両国が新たな戦争に向けて準備を進める中、その格好の口実となったのが、1511年にジギマンタスが兄の未亡人でありヴァシーリイ・イヴァーノヴィチの姉であるエレーナ・イヴァーノヴナを監禁したことであった。ジギマンタスがメングリ=ギレイと同盟を結んだのを受けて、1512年、ヴァシーリイ・イヴァーノヴィチはリトアニアに宣戦を布告した。
 ヴァシーリイ・イヴァーノヴィチは、自ら弟のユーリイ・イヴァーノヴィチドミートリイ・ジールカとともにスモレンスクに進軍。6週間にわたりこれを攻囲するが、陥とせず。モスクワに帰還した。イヴァン・レプニャー公はオールシャ、ヴィテブスクを、ヴァシーリイ・シェミャーチチはキエフを、ヴァシーリイ・ネモーイ公はホルムを攻略した。

 1512年、メングリ=ギレイとの通牒の咎で、アブドゥル=ラティーフを捕らえてユーリエフ=ポリスキイを没収する。
 またこの年、カシーモフ・ハーンのジャナイが死去。跡継ぎがいなかったため、ヴァシーリイ・イヴァーノヴィチは、シャイフ=アウリヤールを後任に据えた。

シャイフ=アウリヤールはキプチャク・ハーンだったアフマトの甥。1502年、メングリ=ギレイにサライを攻略された後、モスクワに亡命していた。

 1513年、ヴァシーリイ・イヴァーノヴィチはスモレンスクに軍を派遣し、次いで自らも乗り込んだ。同時にアレクサンドル・ロストーフスキイ公ミハイール・ゴリーツァ公をクリム・ハーン対策として南方に派遣。ヴァシーリイ・ネモーイ公もポーロツクに侵攻した。しかしまたしてもスモレンスクを陥とせず撤退した。
 ヴァシーリイ・イヴァーノヴィチは、神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世と同盟を結び、ポーランドに対する外交的圧力を強めた。ちなみにこの時マクシミリアン1世は、ヴァシーリイ・イヴァーノヴィチの «ツァーリ» の称号を認めている(神聖ローマ皇帝と同格と認めたかどうかはよくわからないが、ともかく «皇帝» に相当する称号として認めた)。

 1513年、従兄弟のフョードル・ボリーソヴィチが子なくして死に、遺領ヴォロク(ヴォロコラムスク)を大公領に併合した。もともとヴァシーリイ・イヴァーノヴィチには厄介な叔父たちがひとりも残っていなかったが、これにより従兄弟も死に絶え、ヴァシーリイ・イヴァーノヴィチに残された親族は、弟たちを除けば、ヴァシーリイ・セミョーノヴィチヴァシーリイ・シェミャーチチだけとなった。これはヴァシーリイ・イヴァーノヴィチの権威を高め、中央集権を推進する上では好都合であった。

 1514年、ダニイール・シチェニャー公率いる軍を派遣したヴァシーリイ・イヴァーノヴィチは、またしても弟ユーリイ・イヴァーノヴィチセミョーン・イヴァーノヴィチを引き連れて自らも出陣し、ついにスモレンスクを陥落させる。さらにムスティスラーヴリなどの旧スモレンスク公領を占領。軍をオールシャに進めるが、オールシャ近郊でリトアニア軍に大敗を喫して占領地を奪い返された。しかしスモレンスクは守り抜いた。
 スモレンスク征服は、今次対リトアニア戦争の最大の戦果であり、以後ヴァシーリイ・イヴァーノヴィチも積極的な攻勢には出なかった。1515年にはヴァシーリイ・ネモーイ公ミハイール・ゴルバートィイ公がヴィテブスクを蹂躙し、1516年にもミハイール・ゴルバートィイ公がヴィテブスク攻撃を繰り返したが、ヴァシーリイ・イヴァーノヴィチの目は(ジギマンタスの目も)、南方、クリム・ハーンに向いていた(クリム・ハーンは、モスクワ領のみならず同盟相手のリトアニア領にも侵攻を繰り返していた)。
 もっとも、ジギマンタスは1515年に皇帝マクシミリアン1世とヴィーン協定を結び、ヴァシーリイ・イヴァーノヴィチとの同盟を破棄させている。

 1516年、リャザニ大公イヴァン・イヴァーノヴィチがクリムのメフメド=ギレイと結ぼうとする。これを知ったヴァシーリイ・イヴァーノヴィチは、1517年にイヴァン・イヴァーノヴィチをモスクワに召喚。監禁し、事実上リャザニを併合した。

メングリ=ギレイは1515年に死去。息子のメフメド=ギレイが跡を継いでいた。ただし父の政策を継承。反モスクワ、親リトアニア路線を採った。

 1516年、カシーモフのシャイフ=アウリヤールが死去。その子シャー=アリーが跡を継いだ。

シャー=アリーは «シャイフ=アリー» の方が一般的なようだが、墓碑銘にはシャー=アリーと書かれているらしい。

 1516年、カザンのムハンマド=アミーンが病に陥る。カザン市民はヴァシーリイ・イヴァーノヴィチに、その後継者としてアブドゥル=ラティーフを釈放するよう要求し、ヴァシーリイ・イヴァーノヴィチはこれを許可。アブドゥル=ラティーフにカシーラを与えた。しかしアブドゥル=ラティーフは、1517年、兄に先立った。死因は不明。

 1517年、スタロドゥーブ公ヴァシーリイ・セミョーノヴィチを追放し、スタロドゥーブを併合。
 この年、リトアニア軍がスモレンスク奪還のため侵攻してくるが、対クリム・ハーン対策に軍を割けないヴァシーリイ・イヴァーノヴィチは、ヴァシーリイ・ネモーイ公を派遣。これを撃退させた。
 しかし翌1518年には主力を西方にまわし、ポーロツクを攻囲。さらにミンスク、ノヴォグルードクにまで攻め込んだ。1519年にはヴィリニュス近郊にまで到っている。

 1518年、ムハンマド=アミーンが死去。ヴァシーリイ・イヴァーノヴィチは、その後任として、カシーモフのシャー=アリーを据える。カシーモフ・ハーンには、シャー=アリーの弟ジャーン=アリーを据える。
 カザン・ハーン国での親モスクワ派と反モスクワ派の対立は依然として続いていたようだ。イヴァン3世の死後、クリム・ハーンが反モスクワに政策を転換したことで、反モスクワ派はクリム・ハーンに急接近。1521年にメフメド=ギレイがカザンに侵攻し、シャー=アリーを追放。自らの弟サーヒブ=ギレイをカザン・ハーンとした。
 メフメド=ギレイは、さらにジギマンタス、ノガイ、コサックとも同盟し、モスクワに侵攻する。ヴァシーリイ・イヴァーノヴィチは自らオカー河に出陣したが敗北。クリム・ハーン軍はモスクワを攻囲したが、これを陥とすことはせずに撤退した。
 なお、これに乗じてリャザニ大公イヴァン・イヴァーノヴィチがリトアニアに逃亡。ヴァシーリイ・イヴァーノヴィチは、正式にリャザニを併合する。

1521年のモスクワ攻囲が、クリム・ハーン軍による最初のモスクワ攻囲。

 モスクワは、リトアニア、クリム・ハーン国に加えて、カザン・ハーン国をも敵にまわすことになり、四面楚歌に陥った。
 この状態を打開するため、ヴァシーリイ・イヴァーノヴィチはリトアニアとの講和を本格的に推進。1522年、ジギマンタスと5年間の休戦条約を結び、とりあえずスモレンスクの併合を認めさせた。
 1523年、メフメド=ギレイがアストラハンを占領。ところが共同作戦を取っていたノガイに裏切られ、メフメド=ギレイは当地で殺され、クリミア半島そのものもノガイに蹂躙された。クリム・ハーン位は息子のガージー=ギレイが跡を継ぐものの、オスマン帝国のスレイマン豪華帝が介入。ガージー=ギレイは追われ、代わりにメフメド=ギレイの弟サアーデト=ギレイがハーンとされた。
 その頃カザンでは、サーヒブ=ギレイがモスクワ商人を殺すという事件が起こっていた。1524年、ヴァシーリイ・イヴァーノヴィチはイヴァン・ベリスキイ公軍を派遣。サーヒブ=ギレイはクリミアの兄のもとに逃亡した。カザン市民が、サーヒブ=ギレイの甥サファー=ギレイをハーンとして認めるようヴァシーリイ・イヴァーノヴィチに要請すると、ヴァシーリイ・イヴァーノヴィチは、モスクワ商人への特権を条件にこれを承認。
 こうして再びカザン・ハーン国がモスクワに従属する立場に置かれたのみならず、クリム・ハーン国もノガイによる攻略からの再建と新ハーンの権威確立でモスクワにまで手が回らない状態に陥った。リトアニアとの休戦も続いており(結局この休戦状態は1534年まで続く)、モスクワの四囲から久々に脅威が除かれた。これ以降、周辺諸国との大きな軍事衝突は起こっていない。

 ヴァシーリイ・イヴァーノヴィチは、父の政策を引き継ぎ、大貴族を排して新興の宮廷貴族(ドヴォリャニーン)を重用。特に国家機構とそこに勤務する «国家公務員» の整備を推進した。
 父の時代に起源を持つ中央官庁 «プリカーズ» が、文献上に登場するようになるのがこの時代である。すでに父の代にあった宮廷内の職務を整理し、官庁としたもので、ラズリャードヌィー・プリカーズ(国防省)、ポステーリヌィー・プリカーズ(寝具係)、ホローピー・プリカーズ(宮廷使用人の管理)、ジートヌィー・プリカーズ(非常用パンの保管)、コニューシェンヌィー・プリカーズ(厩番)などが、最も初期に成立したプリカーズと考えられている。当然ほかにも «金庫番» など、プリカーズとしては記録に登場しない官庁も存在していたはずである。
 これに伴い、宮中の官職も整理された。すなわち、オコーリニチー(側用人)を筆頭に、オルージュニチー(武器係)、カズナチェーイ(金庫番)、クリューチニク(鍵番)、ストーリニク(食卓係)、クラーフチー(おそらく食卓係の元締め)、チャーシュニク(酒蔵係)、コニューシー(厩係)、ヤーセリニチー(まぐさ係)、ポステーリニチー(寝具係)、スパーリニク(寝室係)、ストリャープチー(?)、ローフチー(狩猟官)、ソコーリニチー(鷹匠)などで、これまた以前からモスクワ大公の周囲でこれらの職務を果たしていた者はいたはずだが、この時代に正式な職名と職権が確立された。
 しかも、これまでは世襲の領主貴族として、ある意味で公と対等にわたりあってきたボヤーリンを、これら官職の頂点に据えた。これは一面から言えばボヤーリンを臣下の最高位と認めたということだが、逆に言えばボヤーリンを官職にしてしまったと言うことができる。これまではボヤーリンの家に生まれた者は生まれながらにボヤーリンであったが、これからはモスクワ大公が改めてボヤーリンとして «任命» しない限りボヤーリンにはなれないことになった。

本来、どの分領公にも自前のボヤーリンがいた。この時代にも、ヴァシーリイ・イヴァーノヴィチに仕えるボヤーリンのほかに、ドミートロフ公ユーリイ・イヴァーノヴィチに仕えるボヤーリン、スターリツァ公アンドレイ・イヴァーノヴィチに仕えるボヤーリンなどもいた。おそらくその他の分領公にも自前のボヤーリンがいたものと思われる。しかしいまやそれら分領公自身がモスクワ大公に仕える身となっており、モスクワ大公に仕えるボヤーリンと分領公に仕えるボヤーリンとの間には身分の格差が生じつつあった。

 中央機構の整備とともに、領土面での中央集権化も推進。祖父と父が冷酷非情に一族の分領を次々に没収していった結果、ヴァシーリイ・イヴァーノヴィチが父の跡を継いだ時点で残っていた分領(および元々の独立国)は、プスコーフ、リャザニ、ヴォロク、ドミートロフ、ウーグリチ、カルーガ、スターリツァ、上流諸公領、セーヴェルスカヤ・ゼムリャーの諸公領、そしてカシーモフやカシーラなどのタタール系分領だけとなっていた。
 1523年、ヴァシーリイ・イヴァーノヴィチはヴァシーリイ・シェミャーチチをモスクワに召喚し、幽閉。その分領のノーヴゴロド=セーヴェルスキイとルィリスクを没収する。これにより、残る分領はドミートロフとスターリツァ(どちらも弟)、若干の上流諸公領、そしてタタール系分領だけ。しかもその公はいずれもモスクワ大公の勤務公となっており、面積的にもプスコーフ、リャザニ、広大なセーヴェルスカヤ・ゼムリャーが接収された結果、微々たるものとなった。事実上、ヴァシーリイ・イヴァーノヴィチの代に、リトアニア領となっていないルーシの地はすべてモスクワ大公領に併合されたと言ってよかろう。

 即位直後に結婚したソロモーニヤ・サブーロヴァは、結婚後20年経ってもいまだに子をなしていなかった。この間、自身に世継ぎが生まれなかったため、ヴァシーリイ・イヴァーノヴィチは弟たちに結婚させなかった。中でも、すぐ下の弟であるドミートロフ公ユーリイ・イヴァーノヴィチには、大公位の筆頭継承権者として猜疑心を募らせ、終始かれを部下にスパイさせていたらしい。
 業を煮やしたヴァシーリイ・イヴァーノヴィチは、ソロモーニヤ・サブーロヴァとの離婚を決意。しかし、「教会に禁じられた親等内での結婚であったことが発覚した」などの口実で簡単に離婚できていた西欧カトリック諸侯と異なり、ルーシでは離婚はめったにない出来事であった(事実、離婚したリューリコヴィチは、確認できる限りではごくわずか)。このため、府主教ヴァルラアームを筆頭に、教会関係者からは反対の声が挙がった。もっともその一方で、親族(と言っても弟ふたり)はみな賛成したと言われる。特に兄の猜疑心の被害者であったユーリイ・イヴァーノヴィチなどは、さっさと離婚してさっさと再婚してさっさと世継ぎを生んでもらいたいと思っていただろう。また貴族たちも、大貴族と新興貴族とを問わず、離婚に賛成した。これも権力の安定的な継承を望んだためであろう。
 こうした支持を背景に、ヴァシーリイ・イヴァーノヴィチは1521年、府主教ヴァルラアームを解任。代わりに離婚賛成派のダニイールを府主教とする。さらに、やはり離婚に反対していたマクシーム・グレークを、1525年に異端の咎で宗教裁判にかけ、追放させた。
 反対派を取り除いたヴァシーリイ・イヴァーノヴィチは、1526年、ソロモーニヤ・サブーロヴァをスーズダリの女子修道院に押し込め(修道名ソフィヤ)、ミハイール・グリンスキイの姪であるエレーナ・グリンスカヤと再婚した。エレーナ・グリンスカヤにもやはりしばらく子ができなかったが、1530年、待望の世継ぎイヴァン・ヴァシーリエヴィチが誕生した。

ちなみに、まったくロシアと無関係な話だが、まったく同じ時に、ヨーロッパの反対側でもとある君主が、世継ぎを生まない、教会法上も国法上も正統な妃と離縁しようとして教会と対立していた。この君主はイングランド王ヘンリー8世であり、結局かれはカトリック教会と縁を切ることでこの問題を解決し、キャサリン・オヴ・アラゴンと離婚した。君主と教会との関係がモスクワ(ロシア)とは大きく異なっており、カトリック教会と正教会のあり方が異なっていたため、離婚話が国際問題に発展してしまった。
 ヘンリー8世と再婚相手のアン・ブーリンから生まれた娘がのちのエリザベス1世である。やがてヴァシーリイ・イヴァーノヴィチの息子イヴァン雷帝との間に初めて正式な英露関係を結び、のみならずイヴァン雷帝から結婚の申し込みを受けることになる。

 1530/31/32年、カザン・ハーン国に侵攻。サファー=ギレイを追って、代わりにカシーモフ・ハーンのジャーン=アリーを据えた。この時、その兄シャー=アリーにはカシーラを与えるものの、カシーモフ・ハーン位は空位とした。
 1532年にはクリム・ハーン国でも政権交代があり、ヴァシーリイ・イヴァーノヴィチはその死まで東と南のタタールを心配せずに済んだ。
 1533年、カザンとの関係を理由にシャー=アリーをベロオーゼロに追放。カザン・ハーンが弟のジャーン=アリーだったのだから、これはほとんど言いがかりに近いようにも思われる。

 左足の太腿にできた腫れ物から敗血症を起こし、死去。死に際して修道士ヴァルラアームとなる。クレムリンのアルハンゲリスキイ大聖堂に葬られた。

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最終更新日 07 03 2013

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