ロシア学事始ロシアの君主リューリク家人名録系図人名一覧

リューリク家人名録

ヴァシーリイ2世・ヴァシーリエヴィチ «テョームヌィイ»

Василий Васильевич "Темный"

モスクワ大公 великий князь Московский (1425-33、33-34、34-46、46-62)
ノーヴゴロド公 князь Новгородский (1425-46、46-62)
コロームナ公 князь Коломенский (1433)
ヴォーログダ公 князь Вологодский (1446)

生:1415.03.10/15−モスクワ
没:1462.03.27 (享年47)−モスクワ

父:モスクワ大公ヴァシーリイ1世・ドミートリエヴィチモスクワ大公ドミートリイ・ドンスコーイ
母:ソフィヤリトアニア大公ヴィタウタス

結婚:1433
  & マリーヤ公女 -1484 (マロヤロスラーヴェツ公ヤロスラーフ・ヴラディーミロヴィチ

子:

生没年
マリーヤ・ヤロスラーヴナと
1ユーリイ1437-41
2イヴァン1440-1505モスクワ
3ユーリイ1441-72ドミートロフ
4セミョーン1444-
5アンドレイ1446-93ウーグリチ
6ボリース1449-94ヴォロク
7アンナ1450-1501リャザニ大公ヴァシーリイ
8アンドレイ1453-81ヴォーログダ

第17世代。モノマーシチ(モスクワ系)。

 ヴァシーリイ1世の四男(五男?)にして末子。しかし兄のユーリイとダニイール(+セミョーン?)は幼年で死んでいた。唯一生き残っていたイヴァンは1416年に結婚したが、これまた1417年に死去。イヴァンにも子がなかったため、ヴァシーリイ・ヴァシーリエヴィチが父の跡継ぎとなった。

 ルーシの伝統的な継承法は、基本的には一族内の最年長者が継ぐというもので、これに «ヴォーッチナ(父祖伝来の地)» という概念が絡んで少々複雑になっていたが、要するにモスクワ大公の子たちの中で最年長者が継ぐという仕組みだったと言っていい。
 父ヴァシーリイ1世は祖父の跡を継いでいたが、これは父に叔父がいなかったからで、それでも一族の最年長者ヴラディーミル勇敢公との関係が緊張している(ヴラディーミル勇敢公の父はモスクワ大公ではなかった)。祖父も曾祖父の跡を継いでいるが、これまた祖父の叔父が祖父に先立っていたからにすぎない。結果的にモスクワでは父子による長子相続がおこなわれてきていたが、それも偶然によるものでしかない。
 とはいえ長男(の系統)の権利も早くから重視されており、それが古くはイジャスラーフ・ムスティスラーヴィチユーリイ・ドルゴルーキーの紛争を生んでもいる。モンゴルの襲来以降、特に長子相続原則が強まっていたようで、それが各地で叔父と甥との間に種々の軋轢を生んでいた。1426年にトヴェーリ大公位を継いだボリース・アレクサンドロヴィチがまさにその問題で大叔父と甥との間に軋轢を抱えていた。
 父には、ガーリチ公ユーリイモジャイスク公アンドレイドミートロフ公ピョートルウーグリチ公コンスタンティーンの4人の弟がおり、将来的に叔父・甥の争いが起こる可能性があった。ヴァシーリイ・ヴァシーリエヴィチがまだ幼かっただけに、その可能性は高かったと言っていいだろう。
 父はユーリイ・ドミートリエヴィチモスクワ大公位継承権の放棄を要求したが、ユーリイ・ドミートリエヴィチはこれを拒否。祖父の遺言状では父の跡継ぎにユーリイ・ドミートリエヴィチが指名されており(祖父が死んだ時点ではまだ父は若く、結婚すらしていなかった)、であればユーリイ・ドミートリエヴィチが拒否したのも当然であったろう。

 1425年、父が死去。ヴァシーリイ・ヴァシーリエヴィチはまだ9歳で、母ソフィヤ・ヴィトフトヴナ、モスクワ府主教フォーティイ、ボヤーリンのイヴァン・フセヴォロージュスキイが後ろ盾となって、一応はヴァシーリイ・ヴァシーリエヴィチがモスクワ大公位を継承した。
 しかし、特に一族の最年長者となったユーリイ・ドミートリエヴィチは自らの野心を隠そうともせず、分領ガーリチ=メールスキイに戻ってモスクワとの交渉を始めた。一旦は府主教フォーティイの仲裁でハーンの裁定を待つことで決着した。
 1427年、母后ソフィヤが自らの父であるリトアニア大公ヴィタウタスに、ヴァシーリイ・ヴァシーリエヴィチの大公位とその領土を保障してくれるよう要請。リトアニアとの全面対決などできないユーリイ・ドミートリエヴィチは、1428年、ヴァシーリイ(ソフィヤ)と協定を結び、内戦は一旦回避された。
 なお、この1427年にはリャザニ大公イヴァン・フョードロヴィチも、トヴェーリ大公ボリース・アレクサンドロヴィチも、事実上ヴィタウタスに臣従している。モスクワの影響力は大きく削がれ、そのモスクワも含めて、かつてのルーシはほぼヴィタウタスの宗主権下に入った(リャザニとトヴェーリがモスクワとの協調路線に戻るのは1447年)。

 1430年、ヴィタウタスと府主教フォーティイが相次いで死去。ヴァシーリイ・ヴァシーリエヴィチの大公権を保障していたヴィタウタスと、ヴァシーリイ(ソフィヤ)とユーリイ・ドミートリエヴィチの仲裁役であったフォーティイとがともにいなくなったことで、緊張は一気に高まった。

 1431年、ヴォルガ・ブルガール遠征。これを事実上崩壊させた(その後ヴォルガ・ブルガールは、のちに建国されるカザン・ハーン国に組み込まれる)。

 1431年、ユーリイ・ドミートリエヴィチが、続いて後を追ってヴァシーリイ・ヴァシーリエヴィチが相次いでサライに伺候。1432年、ウル=ムハンマドはヴァシーリイ・ヴァシーリエヴィチを大公として承認した。この時ヴァシーリイ・ヴァシーリエヴィチの側近としてハーン説得の立役者となったのがイヴァン・フセヴォロージュスキイである。
 1433年、サライから帰国したヴァシーリイ・ヴァシーリエヴィチは、マリーヤ・ヤロスラーヴナと結婚。これは母后ソフィヤ・ヴィトフトヴナのあつらえたものらしいが、ソフィヤ・ヴィトフトヴナとしてみれば義弟たちが信頼できない状況で、セールプホフ公ヴァシーリイ・ヤロスラーヴィチは味方につけておきたいとの思惑だったのかもしれない。しかしヴァシーリイ・ヴァシーリエヴィチはサライにて、イヴァン・フセヴォロージュスキイに、その娘と結婚することを約束していた。激怒したイヴァン・フセヴォロージュスキイユーリイ・ドミートリエヴィチ側に寝返る。これにより、情勢は劇的に変化した。

 1433年、ユーリイ・ドミートリエヴィチがモスクワに侵攻。ヴァシーリイ・ヴァシーリエヴィチはクリャージマの戦いで敗北し、大公位を奪われた。ヴァシーリイ・ヴァシーリエヴィチはコストロマーに逃亡したが、ユーリイ・ドミートリエヴィチに捕らえられた。ユーリイ・ドミートリエヴィチの息子たちはヴァシーリイ・ヴァシーリエヴィチを厄介払いすることを主張したが、優柔不断だったのか、それとも寛大だったのか、ユーリイ・ドミートリエヴィチはヴァシーリイ・ヴァシーリエヴィチに分領としてコロームナを与え、支持するボヤーリンたちとともにモスクワを去ることを許した。
 しかし春にはユーリイ・ドミートリエヴィチの急な進軍に間に合わなかった貴族たちが、その後続々とコロームナに集結。これにより情勢は逆転。モスクワ市民の支持も得られなかったユーリイ・ドミートリエヴィチはモスクワをヴァシーリイ・ヴァシーリエヴィチに明け渡し、ガーリチ=メールスキイに帰還した(ちなみにイヴァン・フセヴォロージュスキイはヴァシーリイ・ヴァシーリエヴィチに捕らえられ、目をつぶされて、所領も没収された)。

 ユーリイ・ドミートリエヴィチの行動を、息子たちは是認しなかった。ヴァシーリイ・コソーイドミートリイ・シェミャーカはその年のうちに軍を起こし、クシ河畔でモスクワ軍を破る(ちなみにこの時モスクワ軍を率いていたのは、ヴァシーリイ・ヴァシーリエヴィチの義兄ユーリイ・パトリケーエヴィチ公。捕虜となった)。
 ユーリエヴィチ兄弟の軍にユーリイ・ドミートリエヴィチの軍がまじっていたことを知ったヴァシーリイ・ヴァシーリエヴィチは、1434年、ガーリチ=メールスキイに侵攻。ユーリイ・ドミートリエヴィチをベロオーゼロに追う。
 息子たちと合流したユーリイ・ドミートリエヴィチは、モスクワに侵攻。ロストーフ近郊でモスクワ軍を破る。ニージュニイ・ノーヴゴロドに逃れたヴァシーリイ・ヴァシーリエヴィチはサライに赴こうとするが、ちょうどこの時、ユーリイ・ドミートリエヴィチが死去。ヴァシーリイ・コソーイが後を継ぐ。しかしこれに、ヴァシーリイ・コソーイのふたりの弟、ドミートリイ・シェミャーカドミートリイ赤公が反発し、ヴァシーリイ・ヴァシーリエヴィチをモスクワに呼び戻す。復位を果たしたヴァシーリイ・ヴァシーリエヴィチはヴァシーリイ・コソーイの分領を没収(ヴァシーリイ・コソーイはノーヴゴロドに逃亡)。ふたりのドミートリイには新たな分領を与えて報いた。

 1435年、ヴァシーリイ・コソーイはコストロマーで挙兵。ヴァシーリイ・ヴァシーリエヴィチはヤロスラーヴリ近郊で叛乱軍を撃破。
 再起したヴァシーリイ・コソーイはヴォーログダでヴァシーリイ・ヴァシーリエヴィチを破る。その後対峙する中、和解が成立。ヴァシーリイ・ヴァシーリエヴィチはヴァシーリイ・コソーイにドミートロフを分領として与えた。
 しかし和解は長続きせず、早くも1436年にはヴァシーリイ・コソーイは再びコストロマーで挙兵。しかしヴァシーリイ・ヴァシーリエヴィチはロストーフ近郊で叛乱軍を破った。ヴァシーリイ・ヴァシーリエヴィチはヴァシーリイ・コソーイを捕虜とし、その目をつぶした(目をつぶされた者は権力者となれない)。

 キプチャク・ハーン国ではハーン位を巡る争いが深刻化していた。ヴァシーリイ・ヴァシーリエヴィチに認可状を与えたウル=ムハンマドの地位は不安定で、ヴァシーリイ・ヴァシーリエヴィチは1434年にはウル=ムハンマドを含む3人の «ハーン» に貢納している。
 ウル=ムハンマドは1437年頃に位を追われ、ベリョーフに逃亡。当時のベリョーフの事情は少々混乱しているが(ヴァシーリイ・ミハイロヴィチ参照)、ウル=ムハンマドはここを拠点に体勢を立て直し、ヴァシーリイ・ヴァシーリエヴィチに支援を要請。ヴァシーリイ・ヴァシーリエヴィチは逆にシェミャーカ赤公のドミートリイ兄弟率いる軍を派遣。これを打ち破ったウル=ムハンマドは、勢いに乗ってモルドヴァー人やヴォルガ・ブルガールにも勢力を拡大する。
 1438年、ウル=ムハンマドはニージュニイ・ノーヴゴロドを攻略。1439年にはモスクワに侵攻してきた。ヴァシーリイ・ヴァシーリエヴィチは逃亡し、モスクワはユーリイ・パトリケーエヴィチ公が防衛した。
 この時ドミートリイ・シェミャーカが援軍を送らず、ウル=ムハンマド軍の撤退後にヴァシーリイ・ヴァシーリエヴィチは報復としてその分領を奪い、ノーヴゴロドに追った。ドミートリイ・シェミャーカが軍を率いて戻ると、ヴァシーリイ・ヴァシーリエヴィチは和解した。

なお、この後ウル=ムハンマドはヴォルガ・ブルガールの地に勢力を確立。これがのちのカザン・ハーン国となる。このためカザン・ハーン国の成立は1437/38年、初代カザン・ハーンはウル=ムハンマドとされる。
 この頃、クリミアでもクリム・ハーン国が成立している。初代ハーンのハージー=ギレイは1420年代にクリミアを制圧し、1441年に自らハーンを称した。
 遥か東方では、すでに1420年代にアブル=ハイルによってウズベク・ハーン国が建国されていた。その勢力圏は大雑把にかつてのキプチャク・ハーン国の左翼(カザフスタン、ウズベキスタン、西シベリア南部)に広がっていたが、やがて北方のカザフやシビルが独立していく。その没落後に、新たにブハラ・ハーン国、ヒヴァ・ハーン国、コーカンド・ハーン国ができた。
 カザフ・ハーン国は、アブル=ハイルに反発した勢力がジャーニーベクとケレイの兄弟を担いで1460年頃にカザフ草原に逃亡し建国したもの。
 シビル・ハーン国の本領は、現テュメニを中心とする西シベリア南部。この地には早くからタイブガ家が勢力を築いていたが、1460年代に、ノガイの支援を得たイバクがタイブガ家からこの地の支配権を奪い、ウズベク・ハーンから自立。
 アストラハン・ハーン国は、一般的にマフムードが1460年代に築いたとされる。しかしかれは、キプチャク・ハーンであったクチュク・ムハンマドの長男である。のちのアストラハン・ハーン国の勢力圏がキプチャク・ハーン国の本領であるヴォルガ下流域であったことを考えてみると、マフムードはキプチャク・ハーンとなって、弟アフマトと領土を分割支配したのだろう(マフムードとアフマトがそれぞれ右岸と左岸、あるいは南部と北部)。実質的なアストラハン・ハーン国の建国は、マフムードの子カーシムによって、1470年代になされたと考えるべきだろう。
 ノガイとは、1400年前後にキプチャク・ハーン国の実権を握っていたエディゲイとその子孫を盟主とする、ウラル山脈南部の部族連合である。エディゲイがチンギス・ハーンの男系子孫でなかったためハーンを名乗れず、ゆえに «ノガイ・ハーン国» とは呼ばない。早くから独自の動きをしていたが、1460年代にウズベク・ハーンの影響から脱した。1520年頃に、カザフ・ハーン国に圧迫されてヴォルガ下流域に移る。
 こうしてかつてのキプチャク・ハーン国は、首都サライと若干の遊牧民を支配する存在にすぎなくなった。そもそも本拠地たるヴォルガ下流域すらアストラハン・ハーン国の勢力圏と重なっていたのである。しかしそのハーンは、かつてのキプチャク・ハーン国全土に対する宗主権を主張し続けた。この、キプチャク・ハーンの «残りかす» を、特に «大ハーン» と呼ぶことがある(特に1460年代のアストラハン・ハーンの自立以降)。

 当時、ビザンティン帝国はオスマン帝国にその領土のほとんどを奪われ、首都コンスタンティノープル(と一部ペロポネソス半島)を領有するにすぎなかった。ヴァシーリイ・ヴァシーリエヴィチの姉アンナ(すでに死んでいた)の夫でもあった皇帝イオアンネス8世は、勢力回復のために西欧諸侯の十字軍を呼ぼうと、ローマ・カトリック教会に接近。バーゼル公会議(1431-)の教皇派が1437年にフェッラーラに移転すると、イオアンネス8世もコンスタンティノープル総主教イオセフ2世とともにこれに出席。アレクサンドリア、アンティオキア、イェルサレムの各総主教の全権、さらにキエフ(モスクワ)府主教イシードルも参加した。
 公会議は1439年にフィレンツェに移転して続行。その年のうちに «フィリオクエ問題»(ニカイア信条にカトリック教会が加えた「filioque」という言葉が妥当か否か)で東方教会側が妥協し、カトリック教会と合同で教書に調印。東方オルトドクス教会がローマ・カトリック教会に統合される形で、東西教会の統一が実現した(なお公会議は1443年にはローマに移り、1449年に閉会)。
 しかし «東西教会の合同» と言っても、政治的思惑から皇帝が主導し、コンスタンティノープル教会の高位聖職者が追随しただけで、各地の教会や一般信者はこれを受け入れなかった(公会議参加者の中でもエフェソス主教が調印を拒否した)。
 1441年、イシードルがモスクワに帰還。ヴァシーリイ・ヴァシーリエヴィチはかれを投獄し、聖職者会議を開催。聖職者会議はルーシ正教会のローマ・カトリック教会との合同を否認し、イシードルを府主教の地位から罷免した。イシードルはトヴェーリからリトアニアを経てローマに逃亡した(イシードルは出自はギリシャ人かブルガリア人)。

 1445年、ウル=ムハンマドがニージュニイ・ノーヴゴロドに侵攻し、ヴァシーリイ・ヴァシーリエヴィチが救援に赴く。しかし途上のスーズダリでカザン軍に襲われ、ヴァシーリイ・ヴァシーリエヴィチは捕虜となる。その身代金を支払うためにモスクワでは重税が課せられ、人々の不満が高まった。これに乗じたのがドミートリイ・シェミャーカだった(ちなみにドミートリイ・シェミャーカは、最年長者として、ヴァシーリイ・ヴァシーリエヴィチ不在中は大公権を代行していた)。
 ドミートリイ・シェミャーカトヴェーリ大公ボリース・アレクサンドロヴィチモジャイスク公イヴァン・アンドレーエヴィチを語らい、さらに今回はモスクワのボヤーリンや商人たちをも味方につけた。
 1446年、ヴァシーリイ・ヴァシーリエヴィチは釈放される。しかしこの時にはすでにドミートリイ・シェミャーカのクーデタ計画は出来上がっていた。セールギエフ・ポサードの三位一体セールギイ修道院にいるヴァシーリイ・ヴァシーリエヴィチをイヴァン・アンドレーエヴィチが捕らえ、モスクワに連行し、そこで目をつぶした。
 ヴァシーリイ・ヴァシーリエヴィチは妻子とともにウーグリチに幽閉される(母ソフィヤとは引き離された)。ヴァシーリイ・ヴァシーリエヴィチ派のボヤーリンたちは、あるいはドミートリイ・シェミャーカに忠誠を誓い、あるいはトヴェーリに逃亡したが、セールプホフ公ヴァシーリイ・ヤロスラーヴィチを筆頭に多くがリトアニアに亡命して再起を準備した。あるいは融和を図ったのか、ドミートリイ・シェミャーカはヴァシーリイ・ヴァシーリエヴィチを釈放し、ヴォーログダを与える。

 しかしこの措置は、ヴァシーリイ・ヴァシーリエヴィチ派を結集させるだけの結果となった。
 トヴェーリ大公ボリース・アレクサンドロヴィチは、娘とヴァシーリイ・ヴァシーリエヴィチの嫡男イヴァンとの結婚を条件に助力を約束し、ヴァシーリイ・ヴァシーリエヴィチをトヴェーリに招く。その結果、リャポロフスキイ公兄弟やイヴァン・«ストリガー»・オボレーンスキイ公などのヴァシーリイ・ヴァシーリエヴィチ支持派がトヴェーリに結集。ヴァシーリイ・ヤロスラーヴィチもリトアニアから軍を率いて出陣した。
 ドミートリイ・シェミャーカは、イヴァン・アンドレーエヴィチとともにこれを迎え撃つため出陣。しかしモスクワではヴァシーリイ派のボヤーリン、プレシチェーエフが権力を掌握。モスクワの失陥と敵軍の接近を知り、ドミートリイ・シェミャーカはガーリチ=メールスキイに逃亡した。
 ヴァシーリイ・ヴァシーリエヴィチはモスクワ・トヴェーリ連合軍を率いて北上。ウーグリチを陥落させ、1447年、1年振りにモスクワに帰還した。

 1447年、ヴァシーリイ・ヴァシーリエヴィチはドミートリイ・シェミャーカ & イヴァン・アンドレーエヴィチと講和。前者からはウーグリチ、ルジェーフ、ベジェツキイ・ヴェルフを、後者からはモジャイスク以下分領のほとんどを没収して赦した。
 肉体的に欠陥のある人間は君主になれない、というのは古来洋の東西を問わず見られる慣習法であり、目をつぶされたヴァシーリイ・ヴァシーリエヴィチが復位を果たしたというのは(前例があるとはいえ)、ひとえにボヤーリン、新興の宮廷勤務貴族(ドヴォリャニーン)、分領公・勤務公たちの支持があったればこそであろう。とはいえ、盲目では政務を執るにも差支えがある。特に1450年頃からは、長男イヴァンがヴァシーリイ・ドミートリエヴィチに代わって政務・軍務を執行するようになった。
 こうしてヴァシーリイ・ヴァシーリエヴィチの大公位が確保されたことで、それまでモスクワを見限ってリトアニアに臣従していたトヴェーリ大公ボリース・アレクサンドロヴィチリャザニ大公イヴァン・フョードロヴィチも、20年振りにモスクワとの協調路線に戻った。ボリース・アレクサンドロヴィチはその娘をこの年ヴァシーリイ・ヴァシーリエヴィチの嫡男イヴァンと結婚させたし、イヴァン・フョードロヴィチは翌1448年に生まれた嫡男を、1456年の死に際してヴァシーリイ・ヴァシーリエヴィチに託している。

 この間、ウル=ムハンマドは1445年に長男マフムード(ロシアではマフムーデク)に殺されていた。マフムードはさらに弟たちも皆殺しにし、カザンにおける自身の権力を固めた。
 一方、虐殺を逃れた弟のカーシム=トレグブは、チェルカース人の間をさまよった末に、1447年にモスクワへ。ヴァシーリイ・ヴァシーリエヴィチに仕えるようになった。

カーシム=トレグブはドミートリイ・シェミャーカとの戦いでもタタールとの戦いでも活躍。その功績により、1450年頃にゴロデーツ=メシチョールスキイを分領として与えられた。
 ゴロデーツ=メシチョールスキイは、ヴァシーリイ1世が併合したメシチェラー人の土地の中心都市。のち、カーシム=トレグブにちなんでカシーモフと呼ばれるようになり、この分領は «カシーモフ・ハーン国» と呼ばれるようになる。領土的にはリャザニ大公領にあり(タタール系住民は少数)、モスクワとリャザニの大公が宗主権を及ぼしたが、事実上モスクワの属国。モスクワ大公の派遣した総督が実権を握った。モスクワへのタタールの襲撃に対する «防波堤» の役割を担っていたと言える。最終的に併合されるのは1681年(皇室領となる)。

 1441年にヴァシーリイ・ヴァシーリエヴィチがイシードルを追放して以来、ルーシの正教会には府主教が不在だった。さまざまな事情で府主教が不在という事態はこれまでにもあったが、不都合であることに変わりはない。これまでルーシの府主教はコンスタンティノープル総主教がルーシ側の思惑にかかわらず指名・叙任していたが、ローマ・カトリックを受け入れていまや «異端» となったコンスタンティノープル総主教にいまさら «異端» の府主教を叙任されても困る。
 1448年、ヴァシーリイ・ヴァシーリエヴィチは聖職者会議を開催。ルーシの聖職者たちに自分たちで府主教を選ばせた。この結果、リャザニ・ムーロム主教イオーナが府主教に選出された。
 この時、ヴァシーリイ・ヴァシーリエヴィチはコンスタンティノープル総主教の認可を求めず(単に通知しただけ)。これにより事実上ルーシの正教会はコンスタンティノープル総主教座から独立した(ただし、のちにコンスタンティノープル総主教自身がカトリック教会との合同を否認したことで、再びその権威を認めた)。

 1449年、ヴァシーリイ・ヴァシーリエヴィチは、リトアニア大公カジミエラスと条約を結ぶ。これにより、1408年に父と母方の祖父ヴィタウタスが確定させていた国境を、ほぼ追認した。ヴァシーリイ・ヴァシーリエヴィチは依然国内に不安を抱えており、他方カジミエラスはポーランド王位を継いだばかりであり、両者ともに国境問題でのゴタゴタは避けたかったということだろう。

 1449年、またまたドミートリイ・シェミャーカが叛乱を起こし、モジャイスク公イヴァン・アンドレーエヴィチとともにコストロマーに軍を集結。ヴァシーリイ2世はイヴァン・アンドレーエヴィチにベジェツキイ・ヴェルフを与えて懐柔。
 1450年、ヴァシーリイ・«コソーイ»・オボレーンスキイ公をガーリチ=メールスキイに派遣し、これを併合。ドミートリイ・シェミャーカはノーヴゴロドに逃亡した。

 その後もドミートリイ・シェミャーカはウーステュグを占領し、ヴォーログダに侵攻し、とヴァシーリイ・ヴァシーリエヴィチに対する敵対行動をやめなかったが、1453年に死去(ヴァシーリイ・ヴァシーリエヴィチが部下を買収して毒殺したとも言われる)。これにより、ヴァシーリイ・ヴァシーリエヴィチの大公位はようやく安定した。
 1454年、モジャイスクに侵攻。イヴァン・アンドレーエヴィチを追放し、モジャイスクを大公領に併合する。ズヴェニーゴロドはセールプホフ公ヴァシーリイ・ヤロスラーヴィチに与えた。
 1456年にはセールプホフ公ヴァシーリイ・ヤロスラーヴィチを捕らえ、その分領を併合。
 こうして残された分領はミハイール・アンドレーエヴィチのヴェレヤー・ベロオーゼロだけとなった。

 以後ヴァシーリイ・ヴァシーリエヴィチは、ノーヴゴロド、プスコーフ、ヴャートカへの遠征を繰り返し、モスクワ周辺の領土を画定。国家的統一を推し進める。

 性格的には弱く、政治的にも軍事的にも才能に乏しかったと思われるが、過去100年間モスクワの大公権力に寄生して勢力を伸張させてきたボヤーリン・ドヴォリャニーンたちや一部勤務公たちに支えられ、結果としては父祖以上に強力な大公権を確立することに成功した。しかしこれは、ヴァシーリイ・ヴァシーリエヴィチの功績ではなく、かれを支えた貴族や聖職者のおかげである。内紛に勝利したのも、ヴァシーリイ・ヴァシーリエヴィチと言うよりは都市モスクワとそこに巣食う貴族たちだと言うべきであろう。その意味で、旧来からの公個人の私有財産としてのモスクワ大公領が、この時代に、新たに公的共同体としてのモスクワ大公国へと質的発展を遂げたと言っていい。だからこそこれ以降、官僚制度も整備されていき、大公の個人資産と国有財産とが峻別されるようになるのである。
 なお、ヴァシーリイ・ヴァシーリエヴィチがまともに政務を見たのは、1433年から1445年までの12年間でしかない(それ以前は幼年のため、それ以後は盲目のため、政務を見ることができなかった)。その意味でも、この時代に、大公というパーソナリティが持つ意味が著しく縮小したと言える。

 クレムリンのアルハンゲリスキイ大聖堂に葬られる。

 添え名の «テョームヌィイ»は「暗い」という意味で、基本的にはヴァシーリイ・ヴァシーリエヴィチが盲目であったことを示すとされ、そのため «盲目公» と訳される。
 しかし文字通り「盲目の」という意味では «スレポーイ слепой» という形容詞も存在し、リューリコヴィチにも添え名として使われている(フョードル盲目公)。「眼がない」という意味でなら «ベズオーキイ безокий» という添え名の持ち主もいた(ムスティスラーフ無眼公)。
 個人的には、ヴァシーリイ・ヴァシーリエヴィチ自身の特質も考えてみると、«テョームヌィイ» という添え名には「暗愚な」というニュアンスも含まれていたのではないかと想像しているのだが。

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最終更新日 07 03 2013

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